🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

マハラジャ音楽家にしてパトロン〜スワーティ・ティルナール

近代以前のケーララについて語る時、
一般的には三つの地域に分けられます。
北から、マラバール、コチ、そしてトラヴァンコー。

現在の州制になる前は、今よりもケーララと呼ばれる地域は広く、
南のトラヴァンコーはインド最南端のカニャークマリもその領土に含んでいました。
その更に前は、チェーラ王朝が一帯を統べていたようです。

南のトラバンコー王家は、芸術家のパトロンとして影響力を持ってきた存在です。
三楽聖の四人目とも称されるスワーティ・ティルナールは、この王家に生まれました。
ケーララの芸能を語る上で、彼を無視するわけにはいきません。

彼は、トラヴァンコー王国の王であり、
数々の言語に精通した作曲家であり、
多くの音楽家や芸能を支援したパトロンでもありました。
南インド音楽の三楽聖の同時代人でもあります。

ケーララの代表的な子守唄、Omana Thingal Kidavo…は、
彼の誕生を祝って作られたと言われています
(これについては別稿を立てます)。

現在ケーララ州の舞踊として知られるモヒニヤッタムも、
廃れかけていた伝統をスワーティ・ティルナールが保護し、再興させました。
しかし彼の興味はケーララや南インドの芸能だけに留まることなく、
北インド古典様式であるヒンドゥスターニー音楽の作曲家としても知られています。

ケーララ女性の古典奉納舞踊・モヒニヤッタム

出典:Wikipedia (Public domain)

私は以前、「南インド古典」カルナーティック音楽には
マラヤーラム語の歌なんてほとんど無いのに、
どうしてケーララでこれほどカルナーティック音楽が
「古典」としての地位を確立しているのか?
と、不思議に思っていました。

カタカリなどケーララ土着とも言える芸能は、
カルナーティック音楽の影響を受けつつも
独自のものをしっかり持っているのに、
何故、今では「古典と言えばカルナーティック」になってしまったのでしょうか。

それも、ここ数年の現象などではなく、20世紀の初めには既に、
ケーララは名のある音楽家たちを輩出しています。
そもそもカルナーティック音楽自体、
三楽聖の頃をして現在の形が成立したのだとしても、18~19世紀の成立であり、
現在の形になってからは2,3世紀の歴史だと言えるでしょう。
その間に、いかにしてここまで浸透したのでしょうか。

毎年1月にクーダラマニッキャル宮殿で開かれるスワーティ・ティルナール音楽祭の一幕

この記事によると、スワーティ・ティルナールが
そこに大きな役割を果たしたということです。
かなり読みにくく、校正もされていない記事なのですが、
中々無い情報が載っているので参照します。

いつの時代も、どこの国でも
権力者の庇護は芸術の発展に大きく寄与するものですが、
ことスワーティ・ティルナールの影響と貢献は大きかったようです。
何しろ、インド中から芸能者や識者を招聘し、
自ら指揮してケーララの歌舞を改革、
ほんの33年の人生の間に、作曲数は400を超えています。

おそらくこの時、結果的に、
ケーララでそれまで支持されてきた歌唱法は、
負けてしまった、ということになるのでしょう。
カルナーティック音楽ほどの綿密な理論や繊細なラーガの応用を、
それまでのソーパーナムに代表されるケーララ音楽は持っていませんでした。

ケーララの音楽家はカルナーティック音楽を受け入れ、
徐々にそちらへ移行していきました。
ケーララ・スタイルを維持するカタカリであっても、
カルナータカ音楽の多大な影響を受け入れ、変容しました(同記事による)。

スワーティ・ティルナールの頃は三楽聖も存命であり、
彼の活躍を含め、正にカルナーティック音楽が
爆発的に発展し開花していく時代であったに違いありません。

むしろ、スワーティ・ティルナールを皮切りに、
彼の活躍と奨励によって、カルナータカ音楽の発展自体に、
ケーララが積極的に貢献していった、とも言えるでしょう。

〔王であり、大英帝国の監視もあったスワーティ・ティルナールは、自身が旅をして各地を巡礼する事は叶わなかったが、心では旅をして曲を書いた……と語る、子孫のプリンス・ラーマ・ヴァルマ。〕

ところで、トラヴァンコー王国は、ケーララの南部にあります。
しかし、文化・芸能の中心とよく言われるのはむしろ中〜北部の、
トリッシュールやパルガットといった地域です。
高名な音楽家も、これらの地名を名に冠している人が多くいます。
カタカリ学校として有名なカラーマンダラムもこの地域にあるのですが、
カルナーティック音楽家も多く輩出しています。

パルガットは西ガーツ山脈の“途切れ目”で、
山向こうのコインバトールと繋がっています。
そのコインバトールは
18世紀の後半から19世紀にかけてマイソール領であり、
マイソール王家はトラヴァンコーをも凌ぐほどの音楽パトロンでした。

おそらくですが、この時期に
南インド全体を巻き込んだ音楽の発展があり、
北ケーララではマイソール方面とトラヴァンコー方面、
両方からカルナータカ音楽の洗礼を受けたのではないでしょうか。

余談になりますが、スワーティ・ティルナールというモデルは、
インド芸能における一つの典型ではないかと思います。
基本的には、伝えられたものを正しく継承していくことが大切なのですが、
同時に研究や工夫を通して発展、あるいは古の復興を掲げ、
その芸能分野を豊かにしていく、というのも、インド芸能に於いては
(保守層から反発や批判を受けたとしても)
大いに認められるところです。

この指向は恐らく、常に神話を再発見していくという、
インド文学の伝統と無関係ではないのでしょう。

古を求めて発展させる~インド芸能は「思い出され」て進化する

私がトラヴァンコー王朝と聞いて思い出す人物は三人。
一人はもちろんスワーティ・ティルナール、
一人はその子孫であり、現役のカルナーティック歌手でもあるラーマ・ヴァルマ王子。
そしてもう一人は、ラージャー・ラヴィ・ヴァルマです。

インドじゅうで大人気の画家で、
19世紀末にはウィーンやシカゴでも賞を取ったということで、
ケーララだとあちこちで彼の絵の複製を見かけます。
何かしら神話についてウェブ画像検索をすれば、
まず一つぐらいは彼の作品が出てくるはずです。
ラヴィ・ヴァルマは傍流の出身ですが、その親戚にも学者や芸術家が多いようで、
伝統的に芸術に熱心な一族であるようです。

南インド古典、カルナーティック音楽の歴史

音楽が生きる意味をくれた、と音楽家ラーマ・ヴァルマは語る

王家の保守派に疎まれる音楽家王子(プリンス・ラーマ・ヴァルマ)

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