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音楽と歌詞、どちらが大事か:ラーマヴァルマ王子のエッセイ

以前にもご紹介した音楽家
ラーマヴァルマ王子
時折メーリングリストで
色々なお便りをくださいます。

新年最初(2番目だったかな?)
に送られてきた文章が
とても素敵だったので
ご本人の許可を得て翻訳の上掲載します。

「音楽と歌詞、どちらがより大事か」
という問いは、
答える人のスタンスにより異なり
永遠に答えが出ないかとも
思える命題です。

ヴァルマさんは元々は
音楽が全てで、歌詞は二の次
言葉を楽しむなら
詩を読めばよい……という
考えだったそうですが
あるきっかけがあり、
考えが変わったそうです。

音楽と歌詞

何ヶ月も家にロックダウンすることになって、思いがけずたくさんの時間を得たことで、己を振り返って内省し、これまでの選択を思い返し、犯してしまった間違いや、あるいは恵まれた幸運に想いを馳せている。私の人生で最も恵まれていたことのひとつは、賢く経験の豊富な、年上の人々とのご縁をいただいたことだ。

私はいつでも、何かを書くよりは読む方が好きだったし、話をするよりも耳を傾ける方が好きだった。よき聴き手であれば、人は心の宝箱を開けて、多くの宝物のような話を分けてくれる。そうした情報は正しく用いれば恩恵をもたらしてくれる類のものだ。1990年代半ば、伝説的な音楽家T.R.スブラマニアム教授と長くお話をする機会があった。教えていただいたたくさんの事の中に(その中には、「パッラヴィの歌唱に必要なのはテンション[緊張]ではなく、アテンション[集中・目を逸らさないこと]だ!」というものもあった)、とても印象深い逸話があった。

初めてアーンドラ・プラデーシュ州[テルグ語が公用語]でコンサートをした時、彼は楽聖ティヤーガラージャによるテルグ語の歌ばかりを歌った。コンサートの後、聴衆は彼の周りに集まって彼を褒め称え、「あなたのコンサートは本当に素晴らしかった! あなたの歌った歌の多くは、私たちも知っている歌と旋律が全く同じだったんですよ。ただ、私たちの歌の歌詞はテルグ語だという、言語の違いだけで!」それを耳にしたT.R.スブラマニアム教授はその時その場で、正しいテルグ語を教えてくれる教師を雇うことを決心したという。そして事実、彼はその通りにした。私の師匠バーラムラリクリシュナはテルグ語が母語だったが、彼の家でスブラマニアム教授をお見かけした時は、いつも必ずテルグ語で会話をしていたものだ。

たとえば古今のカルナーティック音楽のコンサートをランダムに100選び出してその曲目を調べれば、その多くは楽聖ティヤーガラージャによるテルグ語の歌だろう。その次は色褪せること無いムットゥスワーミー・ディークシタルの曲で、ほとんどはサンスクリット語だ。1980年代にティルヴァナンタプラム(トリバンドラム)に住んでいたカルナーティック音楽の学生として、テルグ語やカンナダ語の歌の意味を、一単語ずつ学べる機会は多くは無かった。タミル語やサンスクリット語なら、知っている人は多かったけれど。でも今では状況はすっかり、それも良い方向に変わっている。thyagaraja-vaibhavam, Guru Guha Vaibhavam, Swathi Thirunnal Sangeetha Sabha, translationsofsomesongsofcarnticmusic のような素晴らしいサイトがいくつもあって、曲の歌詞と意味を解説してくれている。有名な歌だけでなく、貴重な歌まで網羅している。

私にとって、音楽は何よりも好きなもので、いつでも一番の関心ごとだった。そして歌詞の意味など、かつては気にしたことも無かった。ギリシャの歌でもペルシャの歌でも、キショール・クマールの歌うヒンディー語の歌やカルーソーの歌うイタリア語のオペラ曲と同じように楽しんで味わった。最初に友人が、歌っている歌の具体的な意味を知った方がよいんじゃないかと提案してくれた時、1990年のことだったけれど、私は猛烈に反発して、重要なのは音楽だけだと言い返した。歌詞を楽しみたいなら、詩を読めばいいだけのことじゃないか!

しかし幸運の巡り合わせで、フランス語を学ぶようになった時、ベルギーのジャック・ブレルやフランスのジョルジュ・ブラッサンスら、伝説的な歌手にして作詞作曲家であった彼らの歌曲の詩の素晴らしさに圧倒された。彼らの歌は本当にあらゆる感情を扱っていて、崇高さから繊細さ、情熱から哲学、いたずらさまで描き出されていた。ジョルジュ・ブラッサンスのいくつかの歌と英訳はここにあるから、心の広い方はぜひご覧になってほしい。

フランス語という外国語で、こうした素晴らしい詩に耽溺していると、私はだんだん、自分が歌っている歌が何を意味するか、ちっとも分かっていないことを後ろめたく思うようになってきた。この情けなさをどうにかする最初の一歩として、まず当たったのがマラヤーラム語によるティヤーガラージャ曲の解説書、K.P.S.メーノーンによる「ティヤーガラージャ・スダー」という良書だった。これは亡き曽祖母アンマ・マハーラーニー・セートゥ・パールワティー・バーイーの数多くある兄弟のうちのひとりが、思慮深くも贈ってくれたものだった。彼は1984年に、「カルナーティック音楽が聴くに耐えるのは、アーラーパナやスワラム(歌詞の無い即興部)の時だけだ。だって皆、詩をめちゃくちゃにしてしまっているからね。だからお前はそんなことをするんじゃないよ。分かったかい?」と言ってこの本をくれていたのだった。この本を、私は1990年になるまでほとんど開かなかった。どれほど遅くなったとしても、やっとこの本を開くことができたのは僥倖だった。でもこれは全てジャック・ブレルとジョルジュ・ブラッサンスのおかげである。

たしかに、カルナーティック音楽の歌詞の多くは
1) その歌で取り上げられている特定の神への数多くの賛辞
2) その神が作者に応えてくれていないというひとしきりの文句
3) 健康や財産、平和、繁栄、勝利、満たされること、救済への願い
に終始していることは否定しようが無い。

しかし、これらの歌の詩的な美しさと豊かさに注意深く分け入ってみれば、その魔法のような魅力とあまりにも多くの学びが立ち上がってくることは、ほとんど確実と言っていい。

かのT.V.ゴーパーラクリシュナンと光栄にもステージでご一緒して、カルナーティックの曲の詩の豊かさへの入門として語り合った時の動画はこれだ。

それから私も、いくつか有名な歌曲の詩の豊かさに焦点を当てた動画を作っている。

Endaro Mahanubhavulu

Bhavayami Raghuramam

勉強になったという声も多くいただいている。

私たちの多くは、何ごとにも良い面と悪い面があるものだと了解していると思う。古今の歌手の歌い方にケチをつけようと時間を費やすのはあまりにも無駄なことだが、かといってただひとりの音楽家に盲目に追従して、自分の頭で少しも考えることなくその人のすること全てを受け入れるというのも、同じぐらいにばかげたことだ。カルナーティック音楽を「大衆」に親しみやすくするために、屋外でミュージックビデオを作るだとか、他のジャンルの音楽と混ぜ合わせるだとか、奇抜な衣装や楽器で一風変わって見せるだとか、様々なこころみがなされている。

一般的に「古典音楽」と認識される境界の中に厳格に立ちながらでも、自らの声を洗練させ、発達させ、歌詞に心をくだき、その意味と発音を明確にすることは、豊かな実りをもたらす。「音楽と歌詞、どちらがより重要か?」という質問に対する私の答えは、「どちらも! そして50:50ではなくて、どちらも100%の重要性に値する」というものだ。私たちはただ、まず歌詞を理解し、そしてその甘やかさと豊かさを聴衆と共有するという、その努力を選び取っていかなくてはいけないのだ。

ラーマ・ヴァルマ
2021年1月
ウェブサイト:[Ramavarma.yolasite.com]

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