🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

パロミタ随筆集①について

2022年までのブログ記事の一部を元に、随筆集を作りました。

バウルの修行の中でのもの思いを綴ったものです。

まえがきの文章を、ここに掲載します。

 まえがき

数年間、長い文章が書けなくなり、五行歌などの短い詩ばかりを書いていたときがありました。その頃は、バウルについても、無理に何とかそれらしく書いたり、話したりするのだけれども、かなり苦痛で、自分で読んでいても全く納得できませんでした。

それがいつからか、スイッチが切り替わったように、自分の体験について、そしてバウルについて、書けるようになりました。ここ二年ほどのことです。何を書いてもよくて、何を書くべきでないか、怯えることなく、ごく自然に判断できるようになっていました。この自覚の変化については、ただいつの間にか起こっていたもので、説明ができるものではありません。ただ、修行やその果実とはそういったものである、のだとは言えると思います。

その文章の一部を、ご支援をいただいて、このような書籍という形でまとめることができました。本当に、ありがとうございます。

クラウドファンディングに掲載した文章の一部をここに引用します。

…・・・…
バウルとは、インド東部に伝わる行の伝統で、その表現が歌舞いの形をとります。ひとりで、うたを唄い、楽器を演奏し、足に結いた鈴を鳴らして、歌い舞います。

よろこびの中にいなさい、
とバウルは言います。

幸せでいてね、
と訳することもできるかもしれません。

バウルは「心の人」、
真我と呼ばれるもの、
捉えることのできない鳥
ほんとうの自由
を求めますが

その過程には
行があり、規律があり、稽古があります。

そのすべてが歌舞いに反映されてくる。

献身の内に
求める己がいつの間にか観えている

そして誰もの中に愛する神を見るから
誰にでもオープンで、真摯である。

バウルと出会ってその道にそろりと足を踏み入れたのは二〇一三年、今でもバウルについては中々説明ができませんが、昨年ぐらいから、バウルにまつわることについて、少しずつ言語化ができるようになり、ブログ上で徒然と物思いを綴ってきました。

……(略)……

あるとき思いついて、この中から何篇か選んで、Kindleの電子本にまとめてみました。何篇か、と言っても 四万字近くなったのですが。それを更にしばらくして、ちょっと必要があって読み返していたら、思ったより面白いなあと思いました。

インドに関わる修行の実践者が、このような形で、体験としての……たとえばグルとか愛《プレーマ》とか、お金だとか……概念として紹介されるようなものを、自らの体感として、実践として語ることは、おそらく稀なのではないかと思います。

良くも悪くも、私はインド人にはなれません。あまり日本人には見られない私ですが、やっぱり母語は日本語であり、そして昔から日本の古代からの文化や歴史の連なりに強い関心を持ってきました。

今も、バウルの行をしながらも、日本に根ざした身体観への取り組みを通して理解の助けとしているところが大いにありますし、けれども同時に帰国子女であり、越境者としての視点を強く持っています。そしてその上で、日本の土地風土に生まれた私の基盤は、あくまでバウルなのです。
…・・・…

もうほとんど一〇年前、バウルのうたを本当に初めて習い始めた頃のノートには、教わったことそれ自体とは別に、その頃思ったことのメモが残っていて、今見ると、あまりにも何も分かっていなさすぎて、今の私が読んでももはや、何を言っているか分からなかったりします。だからここにまとめた文章も、更に一〇年後の私が読んだら「勘違いが過ぎる。丸ごと訂正します」ということになるのかもしれません。

実際、既にここにも収録している一年ちょっと前の文章で、「浅いなあ、偉そうに書いているけどちょっと勘違いだなあ」と思うものもあります。

それでも、思ったことや考えたことは、書いておかないと消えてしまう、記憶から本当に消えてしまったりするので、こうして書き残しておけて、そして本という形にまとめる機会をいただけて、良かった、と思います。形にすることは、過程を結果にしてしまうところがあるけれども、ここに書いているすべてはあくまで過程や経過であって、だから「あんまり信じないでくださいね」と所々に入れているのは、それをどうぞ本当に忘れないでくださいね、という読者の皆さまへのリマインダーであり、書いている私自身へのリマインダーでもあります。

今見ると恥ずかしい昨年の勘違いの文章も、ひとまずはほぼそのまま掲載し、少しだけ追記で茶々を入れつつ、書き下ろし分(一部は、ごく最近メルマガやブログに上げた文章をベースにしています)で現在の私の視点を深掘りして書くことにしました。それも、きっと来年になると恥ずかしくなってしまう内容なのだろうけれども。

日本人でバウルやってるのなんてあなただけでしょ、と言われることもあるのですが、全然そんなことは無くて、日本出身の先輩、大先輩は何人もいらっしゃいます。ただ、良くも悪くも(どうしてもこの表現を、よく使ってしまうのですが)こういう形で活動をしているのは、確かに他にあまりいないということになるかもしれません。そういった大先輩の目にこれが触れてしまったとき、いったいどんな風に思われるのかを考えるととても心臓に悪いのですが、ひとつの覚悟と開き直り、そしてできる限りの誠実さをもってこの本を上梓します。

本書では、バウルそれ自体についての説明はほとんどしていません。修行の道の一種である、ということがひとまず分かれば良いかと思いますし、もしもっと知りたくなった方は、巻末に私の師匠の著書を訳した『大いなる魂のうた〜インド遊行の吟遊詩人バウルの世界』の案内を掲載していますので、そちらをご参照ください。

なんと100ページの本になってしまいました。

ある時、師匠に同行していた時、たしかイギリス人のインタビュアーが私に言及して、「お弟子さんで、今はお友だちなのね?」と聞いて、師匠は何とも酸っぱそうな顔をして、
「うーん、私たちの文化ではそういう言い方はしないの。グル・シッシャ(師弟)の関係は、他のどんな関係にもたとえたり、比べることができないの」
と言いました。
このことが、私も年々時を経るごとに、より深い実感となってきました。
ある行者が言いました。
「グルも確かに人間だ。だけどシッシャは、そのように見てはいけない。そこに神がいるのだと思わなくてはいけない。人間であるからには完璧ではない。それでも、シッシャはグルに神を見る」
しかし、そもそも神とは何でしょう?
バウルはこうも言います。全ての人の中に神がいる。この身体の中に神がいる。
食事をふるまうセーヴァ(奉仕)が重視されるのは、それがひとりひとりの中にいる神に奉仕する、確実な方法のひとつだからです。
禅問答のように思われるかもしれませんが、グルについて、師について語ろうという時、こうしたことと切り離す事はできません。
——「師という存在について」より

クラウドファンディング当時のページはこちらです。

この本は、私の主催イベントの会場などで販売しております。
ティラキタさんで通販お取り扱い始めていただきました。

(個人の通販は、以前に私の負担が大きく、
委託販売は、私の把握能力が追いつかないので
(いまだに『大いなる魂のうた』の売上で
回収できていない所もあると思います……)
避けることにしている次第です……)

良かったら、お手に取っていただく機会があると、
そしてそれが何らかのインスピレーションになれば
幸いだと思う次第でございます。