🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

歌いという行と息

歌唱や発声については
私のウィークポイントというか
常に課題であって

驕りを承知で書くなら、
舞や身体操作的なことだと
どこまでできているかは別として
一目置かれることが多いけど
(私なりの「舞の身体」がある)

歌いに関してはそうではなく

逆に言えばそのぶん、
進歩や発展、発見について
自覚的に観察したり
覚えています。

なのでいつも取り組んでは
定期的にああだこうだと
書いていて

今回もその一環なのですが
(※いつもとはまた違うベクトルにマニアック度が高いです、いや変わらないのか?)

何がきっかけになって変化が起こるかというのは
特定できるときも、できないときもあります。

今回のインドで言えば、
あ、今日から耳が開けた、
細かい音の解像度が上がった、
という日がありました。

プラバート・フェーリで
夜明け前の村を
歌いながら歩いているときに
「あれ???」となった朝。

細かい音程の動きが
急に前日よりも見えるようになりました。

次の変化は、
師匠の親友のバハウディンさんが訪れて
カラージ(ドゥルパド声楽の早朝低音稽古)を
共有してくださったとき

カラージ自体は、
それこそ十年近く、一応
知ってはいたのですが

このときのバハウディンさんに
教授していただいたやり方は、
ものすごく今の私にしっくり来ました。

それまではカラージらしきことをやってみても
自分が何をやっているか分かっていなかった
ということがよく分かり

発声のときの状態
への認識・知覚が
明確にシフトしました。

そこからの発展で
いつかは忘れてしまいましたが

単純ですが、そもそも
内在する喉(声帯)のイメージが
違うんだなということに気が付きました。
どんなものとして、
私の喉を実現/理解しているか。

元々は、理想の歌声に
絹のようなイメージを持っていました。
これは数年前に、
スムーズに声を出せたときに
そういう感覚があったからなのですが

プラーナーヤーマ、
いわゆる呼吸法、調息法について
考えていたとき

気がついてみれば、
私の息(呼吸)のイメージは
アムリタ(甘露)に近い
ということを自覚しました。

これはバウル行の中で
自然とそうなってきたことで、
正しいと言ったら何だけれども、
良い方向性なのだと思っています。

それで、
声には絹のイメージがあるけれど、
もしかしたらこれが少し
ズレているのかもしれない、と思い至り。

息が甘露ならば、
声も連なるものとして
そのまま生じてくるはずなのだから。

それからしばらく、発声のときに
甘露をイメージしていました。
割と単純に、力任せにはできなくなります。
また逆に言えば、
力んだときに自覚できる程度の
認識力が今の私に生じてきているということ。

だからある意味ではかなり混乱しました。
すぐ「違う!」となって中々進めなくなったので。

で、それからフィジカル面で
具体的にどうなってこうという話は
ここではしませんが
しょっちゅう「おお!」「こっちか!」
という自分しか得しない感動が多々ありまして

声が、息の流れを阻害しない
とはどういうことなのか、ということが
おぼろげながら、
腑に落ちてきたような気がしています。

少なくとも私の体験として、
めざす声というよりは
声の発信源としての私のあり方
がずっと明確になっていて

ずっと深いところに降りていける
ような感覚があります。
そのぶんズレたらすぐ分かる。
(音程の精度についてはまだ自信が無い)

おそらく、
「歌いの身体」を
獲得しつつあるのかな、と。

そうだといいな。

– – – – – –

ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

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