🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

私のうたいの歩み

私は十代の頃、それなりに歌う事に自信があったように思います。
画の方で、自分で画力がみるみる落ちているのが分かっていた時など、
歌はなんて気楽で素晴らしいのだろうと思っていました

それが、インド声楽に真剣に取り組むようになってから段々、
「私、音程取るのが下手すぎないか」
「というか声が出たり出なかったり掠れたり、ランダム過ぎないか」

耳が少しずつ良くなり、ひらいていくにつれて
自分の「下手さ」もどんどん浮き彫りになってきました。

結局、何事も
真剣に取り組めば取り組むほど、
無邪気な言葉は出にくくなっていく…という事なのかもしれません。

音程が取れるかなど唄の本質ではない、とは言っても
取り組み続けるものならば、
そこに取り組まないのはやはり嘘というもの。
(能の謡など基盤がそもそも違うものは別として)

今年のインド修行でハッと驚いたというか、
「あれ」と不思議になった事は、

「あれ。私はいつのまに、こんなに音程が分かって
リズムも保てて、声も出るようになったんだろう」

という事です。
いつのまにか弟子の中でも筆頭古株という扱いになり
他の弟子のサポートをする事も増えて、
「あれ、こんな事ができるぐらいに、いつのまになっていたの?」と。

もう7年前、8年前になりますが、
ケーララでまだソーパーナ音楽を学ぼうとしていた頃、
早朝の稽古では私は声が出ませんでした。
出ないというか、ものすごい掠れた変な声になった。

勧められて、喉のお医者さんにかかった事もあります。
何回か通ったけど、どんなアドバイスをいただいたかも
全然覚えておりませぬ。
何か発声の何かをやったんだろうな。というような記憶。

でもその問題も、歌を始めたての頃は無かったように思います。
真剣に続けていくうちに出てきた問題でした。
それから今にして思えば、
発声の基礎ができていない状態で、
母語ではない言葉で歌おうとしていたという事も大きかったのではないかと思います。

私の声に初めて真剣に取り組んでくれたのは、
当時のサティーシャン先生と、
現在の師匠のパルバティ・バウルです。

でも結局のところ、解決策は自分で見つけるしかない
というものだと思います。
何しろ、体得する事でしか解消はできないのですから。
どんな祝福が後押しをしてくれても。

5年6年7年に及ぶ「声に関わる」身体の探究の中で、
常に発見の連続でしたが、
最近ふいに、うたうという行為が割と分かるようになりました。
まだ波はありますが、
「あ、こういう事だったのか!」という実感。

背骨から声が立ち上がってくる感覚。
没入と呼ぶには開かれているけど、
その間は時が止まっていながら、永遠でもあるような。
うたうよろこび。

そして私にとっては、それは
舞踊が自然になってくるのと同時に起こりました。
発声に必要な身体の状態と、
舞踊が自ずから動き出すのに必要な状態が
同じものだったからです。

一度だけ師匠に「完璧だ」と言われた時、
今でも夢のような気がします。
音程も、声も、拍子も、舞踊も、全て完璧だと言われ、
今度はこれを常の状態にしなさいと言われました。

でも当然ながら次の展開があって、

この「完璧だ」と言われた時は
エクタラ(一絃琴)とドゥギ(小鼓)とグングル(足に巻いた鈴)
という組み合わせだったのですが、

今度はドタラ(三味線のような楽器)での歌舞の披露を準備するようにと言われました。
私のドタラはまだまだ未熟で、
いくらそれなりに慣れてきたとは言っても、
歌舞いをしながらそつなく弾くにはまだまだという技量。

なので当たり前ですが、それなりにできても詩に深く入ってはいけないし、
舞踊も自由にとはいかない。

ほとんどイチから仕切り直しという気分。
今はそういう所にいます。
でも前よりも理想の姿が見えやすい気がする、そんな場所。

次は、もう少し具体的に、どのように発声に取り組み、
どのように発展してきたのか…について
書こうと思います。

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