🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

チョコレートの話

インドに向かうとき、
空港でチョコレートを買おうと
思っていたんです。

コロナ前のアシュラムで、
当時リトリートとか
大きなイベントごとの
オーガナイズ的な立場にいた私は

飛ぶように過ぎる一日の終わり、
夜寝る前に部屋で
(当初はテントでしたよね)
こっそり食べる一欠片のチョコレートが
物凄い癒やしでした。

ですが成田でなんとなく買う気にならず
経由地のシンガポールでもなぜか買わず

気が付いたらアシュラムに着いてしまってですね

あ~どこかで買わなきゃな~と思いつつ
わざわざチョコレートのためには
外出しない
ということが続いているうちに

誰かがおみやげにチョコレートを持ってきました。
わーい、ときゃぴきゃぴ食べて

また数日後に、
別の誰かがチョコレートを持ち込みました

そしてまた……ということが続き

しかも、みんながもらったわけではない
こっそりもらう現場に居合わせることもあったりして

で、うーんこれは
もうチョコレートを自分では買わない
という実験をしてみようかな
と思って

で結果から言うと、
その後もチョコレートをもらい続け
日本に帰国後の今も、
買っていません。
(日本に帰ってからはほとんど
人に会っていないから
もらってもいませんが。笑)

決定的だったのは
どうしても疲労がきつくて
糖分がほしかったときに
もういいやと
チョコレートをおつかいしてもらおうと思ったのですが

どういう理由かは忘れましたが
おつかい成立ならず

でもその翌日かな、
昨日はできなかったけどと
小さなチョコをもらったんです。

ありがとう! いくらだった?
と聞くと、
いやこれは本当に小さいやつだから
気にしないで、と言われて

ご好意ありがたく受け取りましたので
つまり結局買っていない。

何のこっちゃ、
と思われるかもしれませんが

つまり、
自ら掴み取りに行かなければ、
という思考を手放すための
動かなくても望むものがやってくる(こともある)
という経験をするための実験で

「私は貧しいけれど
心は貧しくない
ハリの名の甘露を飲み
いつでも酔い痴れている

心に願いを持つ人は
バクティ(帰依)があれば
慈悲深いグルがかならず叶えてくれる
バクティがあれば実り
無ければ実らない
真師の恩寵があるなら」

というラロンの有名な歌がありますが

あと確かバガワッド・ギーターでも
「わたしにすべてを捧げる人の
面倒はわたしが必ず見る」
というような一節があったと思うのですが

とにかくこの、
運を天に任せる的な委ね方が
私は得意ではないので

その試験運用?じゃないけど
トライアルにちょうど良いかな、と思って

実際、ある種の確信を得る
かなり大きな助けになった、
と思います。

それで1月には、
またもや個人的な経済危機だったのですが
何かビックリするような形でどうにかなりました。

それから、お金の不安は
かなり本当に失せました。

たまに心配になっても、
「まあどうせどうにかなるだろう…」
と力が抜ける。

今月だって客観的に見たら相当ヤバいと思いますが
なんか大丈夫だろうと思っていて

少なくとも私が歩んでいるバウルの道は、
明日も食べるものがある保障なんて何も無い、
それでもよろこびに溢れていること
という道であって

この道にある限りは
お金を稼ごうと思って動くと大して入ってこないし、
ただ私の存在にとってやるべきことをやっていたら
どこからかなぜかどうにかなる、
というものなのだなと
何というか、この数年あまりをかけて
学ばされました。

だから去年とか一昨年のメルマガを
読み返してみると、本当に悩んでいるのですが
(だって頑張れば頑張るほどナチュラルに赤字になっていたもんね)

私のいる道はこういう道で
世間のあり方は通用しないというか
ある意味では許されないんだろうなと

だけどそのぶんの恩寵が
溢れ満ちているし
それを心底信じきれないのであれば
極論、この道にいる意味は無い

というものなんだろうなと、
げっそり数年をかけて
腑に落とさせられました次第であります。

また話が変わりますが

「来る者拒まず去る者追わず」
という言葉が好きではなくて

というのは、
口にしたり強調することで
去る人に罪悪感を持たせるというか

「おまえの責任だぞ、
おまえが悪いんだぞ」的な
Passive aggressive
受動的攻撃性を含んだ使われ方が
多々あるなと感じていて

あと自分の好意だとか傷心とかを
ごまかしてる感じもしたりするし

まあ好きではないのですが

最近、
私に関わる人を幸せにする責任
みたいなものから
逃げていたところがあるな、
と思って
(これもひとつ間違えば驕りになりますが)

相手の感性を尊重することは
それは変わらず大事なことだけど

相手の判断や責任に委ねることは
相手に責任を押し付けることと紙一重だなと

かなりバランスボールなところですが

でも少なくとも、
自分が相手に与えられる良い影響を
信じきれていないと、
下手したら
相手に承認されることをどこかで待っている
みたいなことになるわけで

少なくとも行者としては、
良い影響をもたらすと念じることというのは
責任と言えると思います、
祈るというのはそういうもののはずだから。

で、「来る者拒まず去る者追わず」
への嫌悪感は、
そういった私の優柔不断を
反映したものであったなと

この頃思うのであります。

でね、でもですね

私、大事な友人たちには
こういう確信というか
責任をたぶん勝手に持ってるんですよ。

だから、きっと世間的な基準で言ったら
親友と呼べるぐらいの
心を分け合える友人が
けっこう何人もいる。

少なくとも、一般的に言われる
二、三人とかよりは
ずっと多くいて、というか

私にとっての友とはそういうものなので

で、それはたぶん、
この無根拠である意味傲慢な
責任感と、
私の存在がこの人に良いものをもたらす
という確信があるからなんだ

と思ったのです。

そして実際に、
お互いにとって滋養になる、
生きる力に直結するような関係性を
築けていると信じていて

だからただの勘違いにはなりきらない
良い形での責任感はきっとあるのだと
そんなことを最近考えています。

でも私はたぶん、
「来る者拒まず去る者追わず」とは今後も言いません。
誰もが美しい神の反映であっても
特に心を分けて気にかける人も、
拒む人も、追う人も、私自身の責任で決めます。

次の歌舞いの機会はこちらです。

公演詳細
【公演のお知らせ】

女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会

日時:3月29日(金) 開場 19:00 開演 19:30
場所:世田谷区 サローネ・フォンタナ
(成城学園駅から徒歩15分、祖師ヶ谷大蔵駅より徒歩12分)
料金:¥4,000(小学生以下無料)

ご予約はこちらのフォームから

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ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

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