🌕6月30日高田馬場ときわ座、7月13日国立ギャラリービブリオ🌕


🟡 7月13日(土)国立ギャラリービブリオ
16:30open 17:00 start チャージ2500円
「恋うたでない恋うた」
パロミタ友美ソロ・バウル歌舞い

🟡6月30日(日)高田馬場ときわ座
13:00op / 13:30st / ¥2500+飲み物
Withナマステ楽団
この日は自作の日本語の歌のみをがっつり歌います。

音源がネット上に無い唄や音楽を学ぶ事

ネットで探しても見つからない歌

私は今バウルのうたを学んでいて、
昨日、今まで学んだうたを数えてみたら、
104ありました。

この104曲は、ほとんどは一度は覚えた事がある詩で、歌です。
他に、ノートに書いてあるけどまともに習ってはいないものが数曲あります。

そのほとんどが、一部のよく知られたものをのぞいては
インターネットで検索しても出てきません。

南インドの古典音楽を学んでいた時も、
全てがネット上で見つかる訳ではなかったけど、
それでもあるものも多かったし、
同じラーガ(旋律の系統)の曲はラーガ名を入力すれば探せました。

教わり取り組んでいる音楽がネット上で探しても見つからないものだ、
という事は、今では当たり前になってしまったけど
たぶん、この時代にあってさほど当たり前の事では無いのでしょう。

録音の功罪

師匠に付いて教わり始めた時、
最初は録音していたのですが、
しばらくすると録音をやめてしまいました。

「録音しているからって油断するな」
と言われて、
「それなら録音しないで学ぼうとしてみよう」
と思ったのでした。

それには功罪あって、メリットもデメリットもありましたが
メリットは、明らかに歌の記憶力が上がった事
20代半ばを過ぎても脳は進化するのかと感動しました。

デメリットは、音源を注意深く聴く習慣が育たなかった事
とはいえ、耳の繊細に聴く力が育っていない状態では、
結局同じ事だったかもしれません。

実際、最初の数曲は録音していましたが、
音源に何度耳を傾けたからといって、
全然歌えるようにはなりませんでした。
聴き分ける力そのものが弱かったのです。

その後、師匠の忙しさが桁違いに増し、
生徒も増えてきた事で、録音がより奨励されるようになりました。
(外部公開厳禁で)

その頃から、生徒の中でも
「音源を物凄くよく聴き込んだんだな」
という人が出てくるようになって、
生来の繊細さによるものもあるかとは思いますが、
そういう人の歌の再現率はとても高かった。

私はその点、録音を聴くようになっても、
「聴き込む」事ができませんでした。
それは繊細に聴き取る力が弱かったからこそ
何度聴いても大して意味が無かったという事でもあるし、
聴く回数が少ないからこそ聴き取る力も付かなかったのかもしれないし
とにかく、当時の私は録音を活用するだけの力がありませんでした。

私の中のうたの情報バンク

とはいえ今は、録音を活用できる程度には
ディテールを聴く力が付いてきました。

私の場合は、うたに取り組み続けた事に加えて
身体の感度など、身体性自体への取り組みを深めていった事
プラス、単純に年月を経て(6年ぐらい)
何だか気がついたら、音程を取ったり
聴き分けたりする事ができるように、急になっていました。

割に自然と、あるひとつの詩の歌われ方から
その歌のある程度のパターン、
歌われ方のバリエーションをいくらか拾って
ある程度再現できるぐらいには
耳が良くなりました。

これはその、一度は覚えた104曲の存在が大きいのだろうと思います。
ある程度のうたの情報バンクが私の中に形成されてきたのでしょう。

それからとにかく、師匠をはじめ
バウルの方々と共に時間を過ごしてきたから。

録音していなかった頃に教わったうたも、
自然とより細かいところまで見えるようになってきました。

録音・記録の意義

今はとにかくすぐ、
「録音していいか」「動画を撮っていいか」…
という時代なので(インドでは特に)、

割と長いこと、録音には懐疑的だったのですが
単純にアーカイブとしての必要性
再現できる人間とできない人間がいる事などから
必要性を認識するようになってきました。

理解できる耳や目を持っている人にとっては、
録音や映像は物凄い情報の宝庫です。

私にとって、そして多くの生徒にとって
バウルのうたは師から与えられるもので、
たとえばyoutubeやCDからコピーできるものではありませんでした。

しかし私にとって日本語の歌がそうであるように
ベンガル人にとっては、耳にしていれば
自然と覚えてしまう歌もあるでしょう。
歌手など、耳が良い人であれば尚更。

ある時、もうバウルの歌への理解が
ある程度あるから、
CDなどから学んでも構わない、と言われました。
(そういう質問をした人がいて、
私の名前もその答えの中で挙がったのでした)。

知識は分け与えられるべきもので、
知識を得る機会があればいただきなさい。

しかしそれを活用できるか、本当に理解できるかは別の話。

音源から得られるものや、本から得られるものと
師匠から直に与えられる教えは
分別できている必要があります。

うたを修得するという事

インドの古典音楽であれば、
即興の修得を前提としながらも、
ある程度整ったシラバスのようなものがあります。

私たちの音楽、
バウルをはじめとするある種のうたは、
それぞれの曲はあくまで「歌」として
基本的なメロディーがあり、共通理解がありますが
そのままメロディーをなぞるだけでは
そのうたを修得した事にはなりません。

詩の理解はもちろんの事として、
そのうたを自分のものとして唄う時、
自然と迸る叫びが即興的な旋律の枝葉として
うたを彩ります。

しかしその即興も、うた本来の持つ色、
そのうたの性質から生じるものでなくては
そのうたを理解していない事になります。

いわゆるラーガ(旋律の組み合わせ)的には
同じラーガに属する、同じメロディーを持つうたでも
うたの性質は同じではありません。

更にバウルとしてこのうたを学ぶのであれば、
行者の性質、味わいのようなものが
そのうたに反映されていなければ
バウルのうたとは言えません。

そのレベルでうたを修得するべく、
日々研鑽を重ねています。

そのように学んだうたに興味がある方は、
ぜひ一度公演にいらして下さいね。

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