舞うときに、
足で何かヤントラを描く
足で呪(しゅ)を描くというような感覚は
いつからかあって
記憶にあるところでは、
荻原規子『風神秘抄』の中で
白拍子の舞の描写の中に
足捌きに何かそういった表現が
あった気がするので
その影響が大きいかもしれません。
荻原規子は古典をたくさん読まれる方だから
梁塵秘抄や花伝書など
何かをベースに表現したのかもしれないし、
あるいは彼女独自のインスピレーションなのかもしれないけれども
とにかく、私にはそういう感覚がいつからかずっとあって
大償神楽に、舞は「足で印を踏む」という表現が残っていて
でも今はそれが具体として何を意味したか分からない
という話を聞いたときに、
とても嬉しくなったのでした。
(これは親交ある剣術の先生にお聞きした話で、
その後昨年の花巻公演でお世話になった
大償神楽舞手の方に先日確認したのですが
名前と動作は残っているけれど
はっきりとした意味は歌詞や
所作の名から推しはかるしかない、
とのことでした)
反閉という動作も
(これも定義は色々あると思うのですが、
ここでは足踏み的なもののことを差しています)
取り組んでいけばいくほど、
それひとつだけで身体を調えるような作用がある、
動作としてはとても原始的なのに
それほど力あるものなのだなと
実感しています。
江戸里神楽では、足踏みは
地の神様を呼び覚ます挨拶だと
教わりました……たしか。
そういうわけで
舞の中での足の重要性は
自明のことではあったのですが
ドタラ(撥弦楽器)を弾きながら
舞歌いするようになったとき
単純にまず弾く力が未熟だから
舞にまで集注が及ばない
ということもあったのですが
両手がある種、拘束された状態で
どう舞を成立させていけるのかが
いまいち分かりませんでした。
それでも、
最初から踊ってたじゃん、とは言われるのですが。
一絃琴と鼓のときに自然にある
手の自由度を失い
たとえば手のしなやかさで遊ぶことも中々できない。
(本当に自由に弾けるようになったら別です)
でも、
最近になって
ドタラを弾きながらでもある程度
足を動かせるようになってきた頃
私にとっての舞が
足を根とする、基盤とするものである
という肚が同時に降りてきて
ドタラで舞い歌うことが
まだ拙いながらも
当たり前になったし
そして、ここしばらく
一絃琴での舞歌いをしていないのですが
手や腕の使い方も
ずっと無意識で
気の通り切っていないものだったのだと
理解したのでした。
なので
改めて手や腕にも取り組まないとなー
と思いつつ
足の舞ということを
今は強く想っています。
「受け入れて、手放して、手放して、手放して、ただ揺れるに任せる
女は波乗り、けれど時に
手足を投げ出して
ただ波に身を任せる
…
抗っても愛しても、その波に
言葉は通じない
ただただすべてを浚っていく」これは自作詩、29日にも歌舞います。 https://t.co/Q9eLpS1faK pic.twitter.com/c61NKywtBr
— パロミタ (@Tomomi_Paromita) March 24, 2024
女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会
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(成城学園駅から徒歩15分、祖師ヶ谷大蔵駅より徒歩12分)
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ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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