12月15日〜ベンガル民俗画・ポトゥア絵のウェブ販売をします。

現代ヨガ考②〜「ヨガ・ボディ」を読む

身体的なヨガと精神的なヨーガ?

身体的なヨガと、
哲学的なヨーガが
どう結びつくの???

と、疑問に思った事がある方は
多いと思います。
私も、数年前にラヴィさん(師匠の伴侶)に
質問した事がありました。

ちなみにその時の答えは、
「それはひとりひとりが見つけなければいけない」
というものでした。

そんなものか、と当時は思いましたが
今になって分かるのは、
体験を通してしか体得できないものだ、
と言う事です。
これは、理屈では中々説明がしにくい

敢えて言い切ってしまうと、
話を聞いて納得したつもりになっても、
あくまで「つもり」です。
分かるまでは、どんな理屈も
ただの理屈でしか無い、
これはそう言った性質のものです。

とはいえ、ここまで
肉体的なヨガと
哲学的なヨーガが
かけ離れて見えてしまう事自体は、
おそらく非常に近代的な現象です。

マーク・シングルトンの著作
ヨガ・ボディ
そこに真正面から向き合い、
インドと植民地主義ヨーロッパ
との出会いから、どのように
現在の(主に欧米とインドを中心とした)
「ヨガ」が導き出されてきたのか
をつまびらかにしようとします。

ひとつ大切な事は、
この本は決して、
「現代のヨガとかつてのヨーガが
繋がりが無い別個のものだ」
という、伝統との繋がりを
否定するものでは無いのだ、
という点です。

正直、かなり読みにくい本であるだけに、
そのように早とちりをする方も
結構な数おられるのでは無いかと思います。

アマゾンのレビューを見る限りでも
称賛も批判も、英語でも日本語でも
そもそもちゃんと読み切れていない状態
書いているのでは…
という印象を受けます。

私自身、数年前に読んだ時は
途中から飛ばし読みをしてしまって、
かなり曖昧な理解で済ませてしまったなと
思います。

それから、日本には
この本で取り上げられているのとは
また別の流れでヨーガというものが
入ってきた歴史的な経緯もあり
あまりピンと来ない方もいらっしゃる
かもしれません。

(この本で扱われる内容に
日本のヨーガ・パイオニアは
どう関わって/影響を受けた
のか…?というのも
興味深い事ではあります)。

 沖正弘は戦後、日本にヨガを
紹介したパイオニアのひとり。
更に前の世代の中村天風といい、

諜報員はヨガにめざめる事が多いのか…?

それでも、
いわゆる「ヨガ・スクール」で
ヨーガを学んでいる訳ではない
私のような人間を含め、

今世界を席巻するヨガの潮流の
影響を全く受けずにいられる人は
おそらく少ないので
そういう意味でも、
それが何かを知るための一助になる
有意義な本であるかと思います。

一応先に言いますと、
この本へのおそらくかなり的確な
批評もあって、
それをこの次の投稿では紹介したいと
思っています。
(あまり長くないので、
著者の許可が取れれば、全訳するかもしれません)

しかしそれを踏まえても尚、
この本の意義の大きさは消えません。

ダイジェストと読み方のポイント

とはいえ、正直普通に読もうと思うと
相当に読みにくく、また
拾い読みでは誤読も多くなりそうなので
(というか私がそうでした)
ざっくりと内容を追ったダイジェスト
を作ってみました。

と言っても
自分でもヒくほど
長くなってしまい

もはや、読みやすくない…
のですが、動画とかも
入れてみましたので、

これを読んでからだと、
本が少しは
読みやすくなる
のではないか
と思います。

この本は、1〜8章までが
9章を理解するための
布石というか、背景説明
になっているところがあり、

かつ、この本が関心があるのは
あくまで身体文化に関わるところであり
他の要素は意識的に脇に置いている
ところがある、部分もあると思います。

1章 略史:ヒンドゥーの伝統におけるヨガ

ざっくり言うと、
近代(植民地期)よりも前のヨーガは
文献に残るヨーガ資料を見る限りでは、
ポーズ(アーサナ)的なヨーガは
あくまで副次的な存在
(より大きな全体の比較的小さな一部)
であり、主眼ではない

ここでは近年人気が出てきた
チベット・ヨガの方が元々のハタヨーガに近い
と書かれているけれど、
日本ではチベットヨガこそまた
アンチエイジングや痩せるものとして
宣伝されているようですね。
(検索結果を見る限りでは)

2章 ファキール、ヨギン、ヨーロッパ人

1902年のサイレントムービー
「ヒンドゥー・ファキール」

植民地支配の初期から、
ヒンドゥー教系のヨーギン(ヨーガ行者)や
サンニャーシン(出家者)と、
イスラーム系のファキールなどの行者
ヨーロッパ人は混同していた。
(私の知りうる限りでも、
おそらく当時は当人たちにとっても
この宗教の違いはさしたる問題では無かった
かと思います)

ナータ派の武闘派ヨーギンが
東インド会社に抵抗し邪魔をしていた
事もあり、ヨーギンとは
(ヨーギンと書いていますが、
いわゆる「サドゥー」的な人々をご想像下さい)
苦行者ぶったごろつき、狂人
というような認識をされていた。

また、イスラーム系であれ
ヒンドゥー系であれ、
ヨーギンという言葉には
ヨーガに限らず
武術などを含めた
「身体鍛錬をする人々」という
理解が当時、あったようである。

19世紀になると、”正統ヨーガ”に対し
こうした人々のヨーガは
非正統で低俗、危険なものである
という理解で
ヨーロッパ人だけでなく、
その影響を受けたインド人にも
一層見下されるようになる。
(またシヴァ派に対して
ヴィシュヌ派がキリスト教的に
高潔であるととして持ち上げられる)

また、この時期、サーンキャや
ヴェーダーンタなどの哲学体系(的なもの)が
ヨーロッパの学者から称賛された。

ハタヨーガの教典も英訳され紹介されたが、
現実のハタヨーギンたちは、
堕落した間違った実践者であるとされた。
また、そうした教典の中で
「猥褻」と判断された部分は英訳では除外され、
現在に至るまでそのまま再版を続けている。

また、ハタヨーガ文献翻訳者のヴァースが
1895年の初版では
敬虔なハタヨーギンの弟子という表明・表現だったのが
1915年にはそうしたヨーギンを否定的に貶めるという
変遷(転向?)をしている事も指摘されている。

ヨーガとは当時の
合理的・科学的(つまり西洋近代的)な
価値観に合致して優れているものであるべき
という志向に向かった事が分かる。
ハタヨーガを科学的・医学的に説明し
信頼性を補強する、という傾向は
現在まで続いているものだ。

(ここで私の声を入れると、
こうした発想になる時点で既に、
それよりも前の感性、
それまでのヨーガとは
ある面で切り離されてしまっていた
と言えると思います)

これはナーガ と呼ばれる
主にシヴァ派行者を扱ったドキュメンタリーですが
当時のハタヨーギンのイメージは
これからそう遠くないものと思われます。

3章 ヨガの大衆的イメージ

19世紀には、イギリスの弾圧により、
それまでのような生活を
維持できなくなったヨーギン
(つまりナータ派行者などの「サドゥー」)
が「大道芸人化」する。

様々なポーズをする写真なども
出回り、曲芸的な「低俗な」イメージを補強
(本来聖者的な存在であるべきなのに…
という矛盾への蔑視も含め)

同時期、欧米では曲芸師自体が
娯楽として人気があった。
ヨガのポーズと曲芸ポーズの
ある種の偶然の一致が
ヨーロッパのヨーギン理解(蔑視)に
一役買ったことは間違いなさそうである。

また一方では、
ヨーギン(ヒンドゥー系)や
ファキール(本来一応イスラーム系)行者は
ヨーガの効能により魔力を持っている
とも考えられ、
オカルト的な興味の対象でもあった。

また、植民地化の英領インドにおいては
ヒンドゥー知識人から、
そうした類のヨーギン・ファキールは
インドの後進性や恥だと認識されるようになっていた。

19世紀末、インド精神性の復興・普及
(ヨガ・ルネサンス)の先鋒となった
ヴィヴェーカーナンダ
彼の実践し紹介するラージャ・ヨーガと
ハタヨーガとは関係が無い、と表明。
身体的鍛錬と、精神的鍛錬を区別。

(本書でもたらされる印象ほど
否定的では無いように、私は
個人的には思っています。
そう見せるパフォーマンスもした
のかもしれませんが。

どちらかと言えば、
いわゆるハタヨーガ行者を称える時
身体的・魔術的な要素に引っ張られすぎであり
本当に問題となるのは
本質の内的な探究なのだ、と主張しているだけで
根本的にハタヨーガに反対しているのかというと。

まあそういった事は本書でも
書かれているのですが、
どうも印象がぼやけてしまっています。
このあたりの事に関しては、
ヴィヴェーカーナンダの言葉の解釈などを見るに、
正直、著者の理解が浅い部分はあるように思います…
身体的と精神的という二元論に
無意識に囚われているというか)

1893年のヴィヴェーカーナンダの
スピーチ。50秒ぐらいから。

神智学協会でも
自分たちの解釈のヨガは取り上げても
ハタヨーガは蔑視。

ハタヨーガは、当時の
ヨガやインド文化を広めようとする
国際指導者の間で一種のタブーとなり

結果的に、ヨガという言葉は
ハタヨーガを切り離す事で
欧米の要請に応えるような
「清潔な」「古典的な」「正統の」
伝統として塗り替えられていった。

4章 インドと国際的身体文化

一方で、ヴィヴェーカーナンダが
欧米で受け入れられ始めた頃
(19世紀末までには)
健全な精神だけでなく
強靭な肉体をも称揚する、
「健全な肉体に健全な精神が宿る」
「運動する」「スポーツ」文化が
欧米を中心に世界的な潮流を引き起こしていた。

(※余談ですが、
本書で「身体」と訳されている部分でも
私の判断でここでは「肉体」としている
場合があります)

近代オリンピックが始まるのもこの時期。

この時期に広まった
代表的な体操のひとつが、
スウェーデン体操。
元々医療的な、心身調和を目的とするものだったが、
イギリス軍をはじめ、
教育機関にも取り入れられ
アメリカにも広がり、
YMCAの体操教育やハーモニアル体操にも影響を与えた。
イギリス経由でインドの教育機関でも
広く採用されるようになる。

スウェーデン体操

また、こうした治療的体操が
「東洋的な方法」と比較され、
この見方はのちのハタヨガの文脈にも
引き継がれていく。

よく言えば、西洋での
スウェーデン体操的な身体理解の広がりが、
それまで(植民地的な価値観を受けて)
卑俗なものと貶められて来た
肉体的・ポーズ的なヨーガを
新たな文脈で理解する
便利な視点を提供した、
とも言える。

ヨガ・アーサナ(ポーズ)の
治療文脈での理解は
ヨガの脱宗教化・脱秘術化を促した。

のちのヨガ指導者たちは
欧米との比較で
「ヨガはただの体操ではない」
と強調したが、
インドではただの体操として広がった体育も
本家のスウェーデンでは心身調和の文脈で
起こったものであった。
また、具体的にどのように「異なるか」
がはっきり示される事はほぼ無かった。

同時期(19世紀末〜20世紀初頭)、
サンドウのボディビルディングが人気を博し
インドツアーも成功を収める。
インドでのボディビルディングの
熱狂的な人気
土着の運動文化再興の気運へと
繋がっていく。

サンドウ

また、YMCAによる
キリスト教的価値観を反映した
「身体を通じた教育」
広められた。
YMCAでは、「土着の身体鍛錬システム」
を求め、積極的に取り入れようともしていた。
ヨガ・アーサナもこの文脈で
取り入れられていく。

こうした中で、身体文化、
あるいは肉体に取り組むことの
社会的地位は劇的に向上していった。

5章 近代インドの身体文化:その停滞と実験

宗主国であるイギリスの
「インド人は身体的に
ひ弱で劣っている」という思想
植民地教育を通して、
インド人は自らの認識としていった

これにより、
「身体的に劣等であるインド人」が
「身体的に強くなるべし」という
風潮が強まる。

もっとも、
「現代の私たちは
身体的・精神的に堕落している」
という感覚自体は、
欧米にも共通するものだった。

これと劣等意識が混ざり合い
当時の優生学的思考に裏打ちされ
強くなっていく。

レスリング世界チャンピオンとして
1910年以来、52年無敗を誇った
グレート・ガマはカシミール出身。
ガマのメソッドはブルース・リーも取り入れたとか。 

19世紀後半、
インドで愛国の機運が高まる。
(ヒンドゥー的な自覚が強い)
「愛国的青年の軍事教練」の需要
近代ヨガの誕生は無関係では無い。

ヨガは武闘訓練の隠れ蓑
としても用いられた。
革命闘士がヨーガ指導者に身をやつして
(ここでも「サドゥー」をご想像ください)
逮捕を免れながら行動する事もままあり

そうしたひとりであったティルカは
体操や武闘技術をも
全国の青年たちに
「ヨガ」として教え、
やがて「ヨガ」は
反乱・独立のシンボルとすらなっていく。

このティルカの師は、
伝説的なレスラー・体操競技者・武術家の
ラージャラトナ・マニク・ラオであり
ガンディーの非暴力に賛同せず
ティルカの教えた「ヨガ」の多くは
ラオが開発したものだったという。

ティルカは様々な人に師事して
学んだようで、
ラオの弟子であり、
のちに近代ヨガの礎のひとりとなる
クヴァラヤーナンダ
多くのヨーガ指導者となる弟子を育てた
スワーミー・シヴァーナンダ
「あるヨギの自叙伝」の著者
パラマハンサ・ヨガナンダ

「太陽礼拝」の一連の動きを
作った(と本書では書かれているが、
別のソースによると
17世紀に実践されていた記録がある。
広めたのがこの人なのは確かなようだ)
熱心なボディビルダーにしてアウンドの藩王、
プラティニディ・パント

などにも師事している。
(ただしこの頃、太陽礼拝は
身体鍛錬でこそあれ、
ヨガの一部だとは考えられていなかった

ヴァラナシのアカラ
(道場)の朝の様子

かつてのナータ派の
武闘派ヨーガ行者のイメージが
くしくも形を変えて復活し、
定着していった。

西洋的身体観や身体操法と
インド的身体観や身体操法
本格的に混ざり合い
時に分かちがたい程になったのは
この時期のようである。

一方で、蔑まれる対象としての
ハタヨーギンのイメージと
理想の姿としてのハタヨーギン
矛盾を抱えながら
共に存在する事になった。
ここには、魔術的ないしは
超人的な身体能力も含まれる。

20世紀前半、
超人的能力で名を馳せた天才、
ラーマムールティ・ナイドゥは
欧米的な方法を否定したが、
騎士道精神やスポーツマンシップなど、
イギリスのキリスト教的価値観の
影響からは逃れ得なかった。

そして、インドの身体鍛錬法の
優位性を確信・主張しながらも
外国の身体文化技法を
積極的に取り入れたし、
「元はといえばインドにルーツがあった」
とも語った。
この姿勢は、のちのハタヨガの指導者の
パイオニアとも呼べるものである。

20世紀前半は、
「ヨーガ」と
欧米由来の身体文化を融合する
こころみが数多くなされた時代だった。

植民地宗主のイギリスは
帝国的価値観を普及する有効手段として
スポーツなどの身体文化を利用しつつ
それが反乱の域に入ろうとすると
抑圧する、という
(結果的には、ある種の
矛盾したダブルスタンダード)
政治的姿勢を取り
時に暴力的な取り締まりも行われた。

また、一方では
当時のインド知識人や
高カーストの人々の間で
体操やボディビルディングも含めた
身体鍛錬が、卑しいものとして
蔑まれていた事も留意されるべきだろう。

1957年「インドのヨーギー」
57年になってもこのイメージが

強かった事が窺える。

6章 身体文化としてのヨガ1:強さと気力

ヨガ=ポーズ練習
という理解の基礎は、
20世紀初頭40年ほどの間
作り上げられたもの。

…この章は登場人物や年代が錯綜し
正直、かなり混乱するのですが、
要は、アメリカで
ニューエイジ的な思考の人気が出てきたが
その「ルーツはインド(ないしは東洋)」
という認識がされていて、

それが実際にアメリカで指導した
インド人指導者に投影されつつ、
インド人指導者の表現や概念もまた
(ボディビルディングや体操に加え)
欧米のニューエイジ的思考法に影響を受け

双方向に影響を与え合いながら、
アメリカをはじめとする
西洋世界で認められた「ヨギ」が
インドに凱旋する中で
インドでの認識形成にも影響していった
…という事だと言えると思います。

当時の身体文化にはそれ自体、
「人種の進化を目指す」心性
含有されており、
国際的に人種差別や
人種浄化と密接に関わりながら
インド人の近代ヨガ確立にも
大きな影響を与えた。

「誰にでもできる」
近代ヨーガの確立と普及に
大きな貢献をした
クヴァラヤーナンダ
ヨーゲーンドラはふたりとも
伝説的なレスラー・体操競技者・武術家
ラージャラトナ・マニク・ラオに師事し
身体文化を学んだ後、
ヨーガに転向した。

ただし、いわゆる怪しい
秘儀主義のヨーギンの事は
蔑視していたようだし、
彼らのハタヨガへの理解自体
イギリスのキリスト教的価値観から
免れていなかった。

何年作成か分かりませんが、
ポーズ的ヨガ宣伝フィルムで、ここでも

「奇術的なヨガは本物では無い」
「西洋の筋肉だけ鍛えるものとは違う」
というアプローチで、
「誰でもできる」が売り文句。
(※硝子を噛み砕く場面があります)

ヨーゲーンドラは特に、
優生学に魅せられ
ハタヨガだけが
一代での遺伝の進化をもたらす
事ができる、とした。

また、ボディビルダーとして
有名なKVアイヤールは
ハタヨガを「取り入れ」ていた。
太陽礼拝もボディビルディングの
一部に取り入れていたが、
これ自体はハタヨガでは無く
ボディビルディングの一部と
捉えられていた。

アイヤールは
ヨーガの「古代インドの聖人たち」と
古代ギリシャの「筋骨隆々としたアスリートや神々」の
文化的融合を目指し、

また「特別な腹部の筋肉マッサージ法」の
「ヨガ療法」で病気を治療する事でも有名だった。
アイヤールの患者には、
シタール奏者のラヴィ・シャンカールや
クリシュナーマチャーリャの初期の
パトロンとなったマハラジャなどもいる。

強く美しい身体を通じて
幸せになる、という思想が広まっていった。

一方アメリカでは、
「ニューソート(新思考)」と呼ばれる
プロテスタント的な
「擬似宗教」運動が起こっていた。

ポジティブ思考、自己暗示などで
個人に本来備わっている神性を
呼び覚ます、というのが
ざっくりした概要。

20世紀初頭
ヨガ書籍を多く出版した
ヨギ・ラーマチャラカは
実はニューソートの指導者
シカゴの弁護士の
ウィリアム・ウォーカー・アトキンソンだった

ただしこの頃はまだ、
健康に良い柔軟体操などは
ヨガのアーサナとは別物
考えられていた。
自己暗示、催眠術の呪文などが
「マントラ」と呼ばれたりする。

彼の後には多くの
(本物の)インド人ヨガ教師が
アメリカで活躍し、
代表的なのは「あるヨギの自叙伝」
で有名なヨガナンダ。

ヨガナンダは、ボディビルディングや
ニューソート(新思想)の影響を受けた
「意思の力で筋肉に力を与える」
ヨガ的な「筋肉コントロール」を教えた

ヨガナンダのドキュメンタリー。

ヨガナンダの弟子・クリヤーナンダの
教えるエナジャイズ・エクササイズを見ると
「筋肉コントロール」がどんなもの
だったのか少し想像できる。

また、ヨガナンダの弟は
世界的に有名なボディビルダー
近代ハタヨガの実践者でもある
BCゴーシュで、

彼がコルカタで開いた
身体教育学校の生徒のひとり、
ビクラム・チョウドゥリーは
ここで、現在人気のある
「ビクラム・ヨガ」を完成させている。

「ビクラム・ヨガ」に代表されるような、
様々なアーサナ(ポーズ)を
次々に続けて行う
「シークエンス」は
この頃にヨガ・システムとして
定着してきたようだ。

ビクラム・ヨガのデモンストレーション。

7章 身体文化としてのヨガ2:ハーモニアル体操と奥義ダンス

この章では、
6章で取り上げられたような
20世紀前半の「ヨガ」が
かなり男性向けで
体操・ボディビルディング的なもの
だったのに対して、

1949年の
「インドのヨーギーによる
デモンストレーション」

当時は「ヨガ」と
呼ばれていなかったものの、
今日「ヨガ」と呼ばれているものに
非常に近い
「ハーモニアル」系の体操
紹介している。

「ハーモニアル」というのは
後世付けられた分類名だが、
教会を持たない
キリスト教プロテスタント運動の一種
の事。

そのひとつ、
19世紀フランスの演技・歌唱指導者
フランソワ・デルサルトに端を発する
「デルサルト主義」
アメリカではジュヌヴィエーヌ・ステビンスが継承し、
オカルトや体操、ヨガを組み合わせた表現
国家的な人気を博した。

ハタヨガは当初、
「デルサルト運動に似ている」という
紹介もされ、

デルサルト運動は
ハタヨガ推進者からは
精神性を伴わない、肉体だけのものだと
批判されていたが、
実際には「身体の動きを
精神的な働きに呼応するようにしよう」
といったもので、
柔軟体操、呼吸法、リラクゼーション、
イメージなどを組み合わせていた、
むしろ自覚的に宗教的(もしくはオカルト的)
なものであった。

また、世紀の変わり目には
「東洋ダンス」というジャンル
人気を博すようになり、
ウダイ・シャンカール
ルクミニ・デーヴィーのような
新復興インド舞踊の旗手
(東洋風ダンサーに続いて)
この文脈で欧米で受け入れられ、
それがインド本国での受容にも繋がった。
(そして、互いに自分こそが
真に伝統的であると主張するようになる)

バラタナティヤムが「インド舞踊」になるまで

その次の世代では
独学で学んだ女性
ケイジョラン・アリ
アメリカ・フランスでの
ヨガの普及に一役買っている。
彼女が大量に書いた記事には
大抵ダンサーのポーズ写真
付いていた。

女性の健康、美容、精神的な向上
をめざすアリのヨガは
ハーモニアル系を継承して
ポーズと呼吸に取り組む
ハタヨガ、ヨハネ黙示録、オカルトを融合した
1970年代以降のニューエイジ文化の
先駆け的なものであった。

イギリスでも
ハーモニアル系は人気を博し
モリー(マリー)・バゴット・スタック
夫と滞在したインドで
ヨガ・アーサナを学んで取り入れ、
のちに自身の体操団体で教えたが、
特に「ヨガ」と名付ける事はしなかった。

しかし美容効果だけではなく、
「身体と心と宇宙のバランスをとる」
神秘的な効用を説くなど、
今日のヨガに通じるものが見える。

 美容と健康の女性同盟による
5000人のデモンストレーション。
率いるのはモリー・バゴットの娘、
プルネラ・スタック。

著者は、現在たとえばロンドンで
「ハタ・ヨガ」と呼ばれているもの
特に宗教に関係なく、
穏やかなポーズ練習一般を指すもので
アイアンガーやアシュタンガなどの
システムに囚われず、
自らポーズを作り出しさえする状況に触れ、

欧米で女性中心に学ばれている
現状も踏まえ、
これはむしろ上記の
ハーモニアル系の体操団体の
系統を継ぐものではないか
と推測する。

更に、ドイツ20世紀初頭の
ジムナスティーク運動に端を発する
ソマティクスも、
ハーモニアル体操と無関係では無い。
主に女性によって取り組まれ、
中心的指導者だったヘーデ・カールマイヤーは
前述のデルサルトに師事していた。

ソマティクス
「肉体の精神化」に重きを置く世界観で
精神性と医学の垣根を壊すような、
「繊細なエネルギーのモデル」を
呼び覚ますもの、であった。
これはヨーロッパの催眠術にルーツを持つもの
だが、のちに近代ヨガにも
影響を与えた。

(これは私の余談ですが、
この時期ってたぶん日本でも
催眠術や霊術が興隆していた
時期ですよね…)

こうしたものと対話・
吸収し・され合いながら
やがて取って代わるように、
「インドの身体文化」として
売り出されるようになったものが
近代的な「ヨガ」になっていったようだ。

しかし、1930年代にはまだ
「ストレッチとリラックス」など
ハーモニアル体操的なものは
(今だったら「ヨガ的」とすぐ言われそうだが)
まだ「ヨガ」と結び付けられていなかった

この時期はまだ、
「ヨガ」は言ってしまえばマッチョで男性的な
(著者はこうした言い方はしていませんが)
「優生学」「愛国主義」「超人」
と結び付けられていたし、
ポーズはあくまで
呼吸に安定した基礎を与えるためのものだった。

しかし、今日「ヨガ」で想起されるような
ストレッチ・エクササイズ・ポーズ的な
似たようなシステム自体は
既に、それぞれに歴史を持ち
女性たちの間で人気を誇っていた。

逆に言えば、この文脈で
「ヨガ」が受容されるようになった
とも言える。

8章 メディアとメッセージ:ビジュアルイメージとアサナ再興

ポーズ中心のヨガの成立と広まり
印刷技術手軽な写真撮影の技術
に負うところが大きい。

ジョン・パルツは
写真は「完璧な啓蒙のツールであり、
考えや感情抜きに、機械的・客観的に
経験的知識を与えるもの」で、(p212)
社会における身体の意味や
自意識そのものを変容させ、
社会の変革にも影響を与えていったと論じた。

それは、支配する側からも
抑圧される側からも
どちらにも多方向に、様々に作用した。

身体を鍛える事への興味自体、
写真に喚起されたものが大きかっただろう。
ヴィヴェーカーナンダの
「ラージャ・ヨーガ」は
文字のみでも伝えられた
(少なくともそう思い込めた)が
のちのアーサナ中心のヨガは
(実物でなければ)
写真の助けなしには伝える事が
できないものであった。

また、写真が多い本の方が
「魅力的」と感じられ、
手に取ってもらいやすくなった
という事もあった。
(インターネットの流れと同じですね!)

写真の登場と人気は、
科学的説明への傾倒と
おそらく同じ文脈にある。

また、インド美術史を見ると
19世紀後半の
「楽天的欧米化の時代」の後に
20世紀に入ってからの、
その反動としての
文化的ナショナリズムの追求が起こる。

エリートがそれまで評価しなかったような
土着的な表現の価値が
認められるようになったのもこの頃だ。

それでも、一方で
欧米の技術的優位は消えず、
欧米にも学ぶべしという
了解があった。
その結果として、土着文化は
(取り扱われてしまったからこそ)
むしろ「薄められて」いった。

この流れは、
大体においてヨーガにも
当てはまる。

たとえば、先に
目を背けられたハタ・ヨーギンに
19世紀末の愛国主義者が
新たなヒーロー像を模索し
全く別の形で再興したように。

また、たとえば18世紀の
ヨーガ的身体の描き方
象徴的・観念的な
(と、とりあえずここでは書いておきます)
二次元的な表現に溢れているのに対して、

20世紀以降の表現は
写実的な、外見的な見た目を
再現するものとなっている。

 Credit: Tantrika painting.
Wellcome Collection.
Attribution 4.0 International (CC BY 4.0)

1905年に出版された
「ヨーガ・ソーパーナ」には
写実的な描写
37のアーサナ・6つのムドラ、5つのバンダ
図が印刷され
それまで師弟関係のみで伝授されていた
秘儀的なものが
誰にでも手に取れるようになった。

写実的な表現で
ヒンドゥー神話をテーマに描き
更にそれが大量に印刷された
画家ラージャー・ラヴィ・ヴァルマの
仕事にも通ずる、
「欧米的な知覚のモデルへと至る道」(p243)
に入ったのだった。

また、「ソーパーナ」で
疑問を持った者は著者の家に
手紙を書くか、訪ねるように、
と書かれており、
のちに勃興する通信教育のはしりともなった。

それでも、蔓延する
ネガティブな
「ファキール」「ヨーギン」
イメージゆえにか、
6章で取り上げられたような
次のヨガ独習書の登場には
それから20年の時を要した。

9章 T・クリシュナマチャルヤとマイソールのアサナ再興

1938年、当時50歳。

「今日国際的なヨガにおける」
「右に出るものはいない」「有名人」
クリシュナーマチャーリャ。

(「」で書いているのは、
私自身は彼の名を聞く事の無い
文脈でヨーガを学ぶようになったので、
伝聞としてそうしました)

著者は、クリシュナーマチャーリャを
ここまで追って来た
インドの「身体文化」の変遷
知って初めて、彼の仕事が理解できる

ひとつの好例にして象徴として
この最後の章で取り上げる。

ヴィシュヌ派バラモンの一家
長男として生まれ、
幼い頃から父にヨガを学び、
ヴァラナシやマイソールで
いくつかの正統的なヒンドゥー流派に学んだ

ヴァラナシで耳にした、
ヨーガ・スートラの「本当の意味を
きちんと教えられる唯一の人」である
ラーンモーハン・ブランマチャーリー
を探し出し、
チベットで7年に渡って修行。

この師がクリシュナーマチャーリャに、
インドに戻り、家族を持ち、
ヨーガを教えるように言ったのだという。
1925年にマイソールに戻った

彼が最初に活躍したマイソールは
時のマハラジャの関心から
身体文化再興の「全国的な拠点」になっていた。

このマハラジャは、ボディビルダーの
アイヤールの治療を受けた人でもあり、
インドYMCAのパトロンでもあった。

このマハラジャ の
ジャガンモーハン宮殿で
クリシュナーマチャーリャは
雇われた

当初は「エクササイズ」の教師という分類で
若い王族の身体を鍛えるための
オプションのひとつだった。

クリシュナーマチャーリャは
「ヨーガ・アーサナ・クラス」と
「太陽礼拝クラス」(それぞれ別のクラス)
を少年たちに教えた。
この太陽礼拝の流れるような動きが
マイソールのヨガ・スタイルに
取り入れられたと考えられる。

ヨーゲーンドラは1928年に
「太陽礼拝は、インドの太陽礼拝に
合わせてつくられた体操の一種で、
間違った情報を得た人びとによって
ヨガの一部のように扱われてきているが、
権威ある筋からははっきりと
禁止されているものだ」と
書いている。

このジャガンモーハン宮殿でのクラス
ヨーガの身体教育の「実験」的な
側面があった。
当時のクリシュナーマチャーリャは
常に新しい教え方を試していて
ポーズの順番にこだわる事も無かったし、
生徒それぞれに合わせた教え方をした。

この証言や理解は
同時期の弟子で「アシュタンガ・ヨガ」を
創始したパタビ・ジョイスの
記録とは異なっているが、
あるいはパタビ・ジョイスに合わせて
(また、パタビ・ジョイスは初めから
教える役割を担っていた新米教師だったので)
考案された教え方が、
パタビ・ジョイスの伝える
「アシュタンガ・ヴィンヤサ」なのだとも
考えられる。

パタビ・ジョイスのクラス。

当時のマイソールでは、
ボディビルディングが
「かっこいい」と思われていた一方で、
ヨガはそうではなかった。
「男らしい」に対して、
伝統的だとか文化的だとか、
どこかなよっちいものだと思われていたようだ。

人々の美意識に訴える
ポーズからポーズへと
流れるように変化させる
デモンストレーションは、
そうした風潮の中で、
宣伝効果を狙って
構築されたものだった。

各地でのデモンストレーション
にも参加していたアイヤンガーのクラス。

以前見た宮殿?でのデモンストレーション
の映像はこのスピード感だった
と思います。
(少年たちによるデモンストレーション
動画は検索では見つからず…)

他にも、「廃れそうな伝統に
興味を持ってもらえるように」
自らは
脈を一時的に止めたり、
手で自動車を止めたり、
歯で重い物を持ち上げるといった」(p252)
超人的な力のデモンストレーションを行った。

当時の教え方を
サーカス的だった」と振り返る
証言も多い。

これは、クリシュナーマチャーリャが
師に「ヨーガの普及に努めるように」
誓った事と矛盾しない。

しかし、一方で
最初期の弟子で、アシスタントともなった
シュリーニヴァーサ・ランガが
批判するように、
当時のクリシュナーマチャーリャが
ヨーガの体操的側面に
集中していた事は間違いない。

しかしこれは、雇われ人としての
クリシュナーマチャーリャが、
マハラジャの意向を汲んで
教える事に縛られていた
とも見る事ができる。

実際、最初に雇われた時は
ミーマーンサー(ヴェーダ系の学問)
を教えていたが、
生徒から難しすぎると言う文句があり
マハラジャに配置換えされたという。

また、ここで著者は
スウェーデン体操よりも
激しく男らしいとして
1920年代に欧米で人気を博した
デンマーク式を紹介する。

連続した動きを特徴とした
リズミカルなエクササイズで、
ストレッチの要素をかなり取り入れ
たもので、
外形はクリシュナーマチャーリャの
ヨーガ・シークエンスに
よく似ている。

デンマーク体操(1939年撮影)。

ただ、著者はこれは
クリシュナーマチャーリャが
それを取り入れたと言いたい訳ではなく
クリシュナーマチャーリャの
進めていたヨガが
同時代の欧米基準の最先端とも
合致していた、という事を指摘する。

また、クリシュナーマチャーリャは
雇われた当初にマハラジャに派遣され、
当時既にインドの「アーサナ教育」に
強い影響力を持っていた
クヴァラヤーナンダの研究所を見学しているので、
そこのやり方も応用したかもしれない。

それは、スウェーデン体操のやり方を
踏襲したものでもあった。
ヨーガ・アーサナは
別個のシステムというよりも、
体操システムに組み込まれるもの
として認識されていたようである。

こうした歴史的・文化的な
背景を背負いつつ、
クリシュナーマチャーリャは
彼のヨーガ・アーサナ教授法を
実験・確立させていったのである。

そもそもインドの伝統では、
「過去の状態を維持することに拘泥しない」
正統を時代に合わせた形で
伝えていくものだ、という点は
留意されてしかるべきだろう。

古を求めて発展させる~インド芸能は「思い出され」て進化する

著者はおそらくヨーガ関係者から
相当な批判をこの著作を出すまでに
浴びているようで、
これはクリシュナーマチャーリャを
非難している事には当たらない、
という事にかなり文字数を割いている)

クリシュナーマチャーリャは
1952年にチェンナイに移り
亡くなる1989年まで、
そこでもヨーガを教え続けた。

後年のチェンナイの教え方では
若い頃のエアロビック的な要素は影を潜めていた

まとめ

まとめるの難しいですね!
以下は私の主観的なまとめです。

まず、宗主国イギリス側
東洋の神秘に憧れながらも

現実の土着の「汚らしい」神秘主義者を
「まがいもの」「卑しいもの」
「正統をねじ曲げたもの」
などと見る態度があった。

(私自身は、この価値観を
「キリスト教的」と一括りに
呼んでしまうのも
乱暴かと思っています…ただ、
これがいつどこのキリスト教か
と具体的に言える程の知識はありません)

これを受けて、
植民地支配を受ける側は
自らをどう、宗主国にも
認められる存在として
確立していくか、という
受容と葛藤をせざるを得なかった

宗主国(※国際社会でもある)
の蔑むものを卑しみながら
(もしかしたらバラモン的な
元々の権力者の見方にも
通じるものはあったのかもしれないが)

自国の土着の伝統に
アイデンティティを求め、
また宗主国の基準で
その価値を証明しようとしていく

(あと、この本では触れられていない
ように思いますが、もしかしたら
どこの国でもあるような
自国の退廃を嘆く動き自体が
元々インドの土地にあった可能性も、
あるかもしれません…これは
特に調べずに言っているので、
後で急に消したらすみません)

この植民地側の動きと、
宗主国側の、
「東洋の神秘」への興味・妄想
双方向的に作用し、
ヨーガの評価・理解・受容・実践も
変遷していく事になり

その結果として、
西洋の影響を取り入れつつ
西洋に影響を与える存在となった
「近代ヨガ」が立ち上がった

この動きは、
欧米諸国の側に
「身体回帰」もしくは
「身体の再発見」に向かう
国際的な大きな流れがあって
結果的に呼応するように起こったが、

個人的には、
「先進国」の中でこうした動きが起きた
時代のファクター自体が気になります。

インドや欧米で
こうした事が起こっている時、
日本でもやはり、欧米の
オカルト思想を輸入しつつ
催眠術・霊術や
様々な新興宗教が起こったり
しているので…

結局、この時代は
何だったのだろう?
という気持ちになります。

あ、個人的にまたひとつ付け加えると
これも憶測でものを言っていて
申し訳ないのですが

この本で扱われている動き
大枠で言えばおそらく富裕層とか
主に高カーストのもの

最初にドキュメンタリーの動画を載せた
ナーガ行者とか、私の学ぶバウルとか
もっとずっと貧しく、
先進的な教育の届くべくも無かった人々

何だかんだ、相当に古いものを
地道に、普通に、ただの人生として
伝えて来ているのだと思います。
だけどそれも、そろそろ
最後の世代かもしれません。

資本主義経済の手は
(仮にそれ自体が今
行き詰まっているとしても)
今や彼らをもしっかり掴んでいて

伝統を失わず伝えていくためには、
何かしらの意識的な工夫や
取り組みをするしかない
という時代に入っています。

訳文について

こちらの邦訳は、
それなりに読みやすいものだと
私は感じていますが、

同時に、途中でちょっと
気が飛びそうになる感じは、
(気を抜くと寝そう)
訳文によるものなのか、
元々学術的な性格がある
原文からのものなのかは、
判断がつきません。

が、それなりに読みやすいからこそ
どうして、インド関係者(分野の識者)を
せめて固有名詞などの監修に
入れなかったのか?
というところが、非常に残念です。

あえてポリシーを持ってそうする
場合もあるでしょうが、
私の読んだ限りでは、単純に
「インドの言葉が読み書きできる人」
のチェックが入っていないのだろうな、
という一貫性の無さを感じました。

というのも、その点だけで
ある程度インドに関わり、
知識がある人には
「拙い訳」という印象、そして評価
になってしまうだろうと思います。
つまり、それだけで
「信頼に値しない本」になってしまう。

(また、「非常に読みやすい訳」
である訳ではない事が追い討ちをかける)

ようは、間違った漢字で記されている
ようなものなので、
ある程度分かる人には、
「これは…あれの事か…?たぶん…?」
という余計な思考負荷がかかるのです。
(※こちらに詳しく
まとめてらっしゃる方がおられます…
私なんか足元にも及ばない知識をお持ちの方です)

それでいながら、全くの素人が
読みやすいようにという配慮も
ほとんど見当たらないという印象です。

専門家の余計な知識や
頭の固い口出しを受けて、
読みにくい文章になってしまう
事を避けたい…
という場合もあるのかも知れませんが、
すみません、そう言える程に
こだわった形跡は見つからないな…
というのが、偉そうですみません、
感想です。

だからこそ、ひとりでも
ちゃんとした知識ある人の監修を
入れれば良かったのに…という
ああ…な残念さが残ります。
貴重な内容の書籍だからこそ。

インド古典のアルファベット省略
(シヴァ・サンヒターをSSとするなど)は
英語の特に学問世界ではよくあるやり方ですが、
邦訳ではもうちょっと工夫した方が
読みやすいよな…とかも。

そんなに言うなら
原書で読めばいいじゃない、
と言われそうですし、
正直一章を読んでいるあたりでギブアップして
そうしようかとも思いかけましたが

だって、こんな分厚い小難しい内容を
ここまで頑張って訳しているんだから、
せっかくなのに、もったいないじゃない…
と、どうしても思ってしまいます。
もうひとり、ふたり監修や校正を加えただけで、
きっともっとずっと読みやすく、
広まりやすいものになったのに。と。

愛情や情熱あっての日本語版だという事は
文章や、装丁を見ればそれはもう明らかなのです。
だからこそ、もうとにかく、
「もったいない!!!!!」
つい
叫びたくなってしまうのです。

とはいえ、それも、
この本という存在の
巡り合わせの一部
ではあるのでしょう。

最初の方にも書きました通り、
この本へのおそらくかなり的確な
批評であるこちら
もし許可が取れれば全訳、
取れなければまとめて
次はご紹介したいなと思います。

より古い方のヨーガに
興味がある方は↓をお勧めします。


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