🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

安定と不安定の定義(4月13日のメルマガより)

(4月13日のメルマガより)

この頃思うのが
責任を引き受けるだけ
預けてもらえるものも
増えるのかもな、ということで

(これだけ見れば、
何を当たり前のことを、
という感じで、その通りなのですが)

この場合の「責任」は
一般的な意味とは、
もしかしたら少し違うかもしれません。

「思っていたよりも
生きたがっていなかった」
と気づいたという話を
1月ぐらいにしたのですが

たぶん、生きたがらないために
生まれる人というのは
いないんじゃないかなと思うので

あくまで私自身の経験として
書くのですが

生きることを
前よりも引き受けるようになった私は

生きること自体の責任を
以前は思っていたほど
引き受けていなかったし

改めて意識してみると
責任を引き受けるということを
怖れているんだなと
思うことが多いです。

(だからこそ
いつ死ぬことにも
さほど抵抗を感じなかった、
痛くなければ……

痛みという機能が無ければ
今頃生きていないに違いない、
痛みは偉大)

自分をそのままに
引き受けることができなければ
他人を引き受けること、
本当に奉仕をすることも
できないのだろうなと
思うところがあって

私の情緒は本当に
幼いのだろうと
しみじみと途方に暮れています。

少し前まで、
私の求めているものとか
私の核のテーマには
ある種の「安心」があるのかなと
思っていたのですが

今は、ちょっと違うと感じていて
(間違いではないにしても)

お金や仕事についてもそうなのですが
安心とか安定とかを
求めてしまっていたことが
そもそも私の性質に反していて
流れが滞っていたのかなと
感じるものです。

だいたい農民になることが
無理なんだなと諦めているのに
安定を求めるのって
矛盾していますよね。
(いつだか見てもらった四柱推命でも
農業と料理はやめなさいと言われた笑)

不安定の中にも
安らぎを見つけていること

は、テーマとして
入ってくると思いますが

安心というのは、
結果として入ってくる要素のひとつで
核ではない

バクティという、
ともすると危うくなりかねない帰依は
本来不安定の要因にしかならない
希求する気持ちを
突き詰めて常の状態としながら、
そのこと自体に
満たされるようになるので

だからいつだって愛が語られる

ある種の強烈さ(intensity)
なしに成り立ち得ないもの

揺れて消えたりするようでは
愛(prem)とは呼べないわけです。

苦行者にして屍体であるシヴァと
愛に狂うラーダーが
不動という点で
通じるのはこのため。

(ちょっとだけ補足として
書いておくと、
トラウマを覆い隠すようなバクティは
盲目がまさって、まだ
本当にはバクティとは言えないと思います、
バクティは透明に見据えて
尚揺らがないもののはずなので……

あるいは、揺らいでも尚
強く燃え続けるもの

トラウマを灰になるまで
燃やし続けている過程
ということはあるかと思う

どれだけ真摯にそれを
めざしているか、
自分や他者を騙したり
誤魔化したりしていないか、
という話になりますが。

私は全然だめだめです)

それは、
疲れきっていた私が
思ったような「安心」とは
一線を画すものかもしれません。

ひとつの要素ではあって
常に崖っぷちで揺れている人間にとっては
それが一番の印象となって
残るかもしれないけれども。

だけど、その崖の形や
大地の振動を
細かく形取れるような
足元の繊細さと
手先や手のひらの自由さ
反動に支配されない体内の柔らかさ
を突き詰めれば

崖も、揺れも
恐れるものにはならない

というところの方が、
私の存在のテーマとしては
核心に近づいていくのかな

と、ここ数日で
思って来ています。

 

– – – – – –

ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

 

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