声と身体について興味ある方には必見の内容です。 あ、英語が分かる方は直接上の動画をご覧下さい!
少し長いですが、ぜひ最後までご覧下さい。
目次
パルバティ・バウル、音の行[ナーダ・ヨーガ]について語る
パルバティ・バウルです。
インドの西ベンガル州から来ました。
バウルについて
バウルの伝統は…
私の師匠ショナトン・ダス・バウルによると、
シヴァ神が最初のバウルなんだそうです。
執着しない事、純粋な愛…つまり
神的な愛、が大事な事で…
バウルの伝統は口承の伝統なので、
何世紀に誰が何をしたとか、
そういう歴史的な記録はありません。
でもエクタラという、
私の使う一絃琴の事ですが、
これはヴェーダの中にも記録があります。
サーマヴェーダの中に。
その頃から存在していたという事です。
サーマヴェーダは私たちにとって
とても大事な聖典です。
ヴェーダは1万6000年前からあるとも言われていますが…
エクタラはとても古い楽器です。
一弦しかない…
人類が楽器を奏で始めた時、
弦楽器を使い始めた…
その一番初めは一弦だったでしょう、それは。
エクタラは基本的には
ドローンとして、
通低音を奏でる楽器です。
この音がとても大切なのです。
これは「Om」の音です。
エクタラは身体を象徴しています。
人間の身体を。
Omの音
アナーハタ・ナーダという、
「弾かれない音」というのがあって、
たとえばこうやって指を弾いたり、
私の声も、声帯が振動して触れ合ったり、
舌が上下とか、歯とかに触れたりしながら…
つまり触れる事で、音が出ています。
でも、何にも触れなくても
存在する音、というのがあります。
それが神的な音と呼ばれる、
宇宙の音です。
それが「Om」です。
もちろん人間の想像ではありますが、
これがOmに込められているものです。
それで、エクタラはOmの音で…
エクタラというものは、
バウルを象徴しています。
それからバウルは、
時の流れの中で
様々に変化しました。
バウルの伝統
ある時はウパニシャッドの影響を強く受け、
またある時は仏教詩に影響を受け、
ある時にはタントラ、
ある時にはヴィシュヌ派バクティの影響を受け、
それからダルヴィーシュ(スーフィー)が来て…
バウルはメルティング・ポットのようなもの、
全てがやって来て、溶け合っているのです。
とてつもない受容力、
どんな伝統も、その内に
受け容れる力があるのです。
バウルはヨーガ行です。
ナーダ・ヨーガ、音の行です。
バウルは歌い、踊ります。
楽器を奏でながら。
そして歌ううたは全て、
マハーマントラ[大真言]です。
真言の、言葉の響きがあります。
そして詩は全て、
一つの境地へと導いています。
とても深いところへの、
内なる旅です。
ずっとこの詩に
想いを馳せ、瞑想を続けていくと
その音が、
身体の内側に触れて
自然と、変化が起きるのです。
そして音には、
そうした変化を引き起こす
力があります。
音の治癒
バウルの伝統では、
音が治癒に使われる事もあります。
音が水に転写されて、
その水が治癒に使われるのです。
音はどんな物質、金属などにも、
転写されて、使う事ができます。
私の師匠はそうしたわざを持っていました。
それには特定のイニシエーション、
灌頂を授からなければいけません。
師から受け取った音を…
その音、真言は、
それを真っ当に修行する事のできる人間にしか
伝えられません。
そのためには、
まずそれに足るだけの基盤を
自ら築いていなければいけません。
良いヨーガ行者でなければいけない。
音を完璧に発音できなければいけないから。
完璧でなければ、
水の中の分子を変える事はできない。
だから完璧になるように、
修行しないといけません。
私の師匠は、この音を写した水を
動物の治癒に使っていました。
牛、仔牛、山羊とか…
その水を使って。
ええと…これは例として話をしたんだけど、
あまり深くは話せないので、
ここまでにしておきましょう。
具体的に語っていただいてもいいですか。
バウルの声の行
バウルの声の使い方は、
一般的な歌の伝統での使われ方とは
かなり違います。
バウルはトランス(憑依状態)には入りません。
トランス音楽ではありません。
トランスというのは、
何かしらの…ブロックを破る必要性、
から来ています。
それで異なる階層の状態にいくための、
その壁を破るための。
でもこの、壁を破るというのは、
バウルの場合、突然起こるものではありません。
その時に、突然破られるもの、
というのではなくて、
バウルの場合は、ずっと起こり続けているのです。
それがヨーガです。
それがトランスと違うところです。
ヨーガは、内なる意識、気づいている意識です。
本質に触れている事。
それは、トランスに入るという事とは、違います。
内側から来る音というのは、
智慧の音です。
この智慧は、何年もの修行を通しての変質、変化の後にしか、やって来ません。
何年も歌って、何度も何度も歌う事を通してしか。
そうですね、
8つのサトヴィック[浄清]な音があると言われています。
その、バウルでの分類の仕方として。
一つはほら貝の音。
呼吸の修行をする時、
ほら貝の音を想像します。
それから鈴の音。
これも聖なる音で、
頭頂部のチャクラから発されます。
それから笛の音。
これは息がひと息で、一つの流れの時に聴こえます。
中心の脈管だけを流れる時に、
笛の音がします。
そんな風に、様々な音があります。
ヌプル(アンクレット)の音とか。
蜂の音とか。ブーンという…
エクタラも、ブーンという音、振動を発します。
通低音を、耳に。
バウルにはナーダ・ウパーサナという行があります。
音の行、音のヨーガです。
いわゆるハタ・ヨーガみたいな肉体的なヨーガではなくて。
声を一定に発し続ける行です。
プラーナーヤーマ(いわゆる「呼吸法」)みたいに。
こういう事がバウルには伝わっています。
シンプルだけど、とても奥深いものです。
この中の一つを完全に修得すれば、
他の全ての要素も分かるようになります。
一つを修行すればいいんです、
それで充分です。
全部分かるためには。
たとえば演奏とか歌を聴いて、
より微細なところを知覚するのに大切ですか?
そういう事も、修行の一部なのでしょうか。
ごめんなさい、
もう一度言ってもらってもいいですか。
身体の内側のエネルギーとか
脊髄とかに取り組んでいく事で、
段々微細な感覚が育ってくるというか、
ある種の振動が起こって来るような事があると思うんですが、
そういう事は、注意深く聴いたり、
そういうバウルの音楽への取り組みの一部なんでしょうか。
「おまえのうたに耳を澄ませ」
そうですね。
私たちが歌っている時…
師匠たちが教えて下さったのは、
「おまえのうたに耳を澄ませ」
という事なんです。
歌うのではなくて。
そうではなくて、耳を澄ませと。
音を受け取りなさいと。
歌うのではないと。
というのは…
私たちの周りにはあまりにも多くの音があって。
目で景色を見る、視界があるように、
音にも景色があるんです。
エネルギーにも景色があると言うでしょう。
音にもあるんです。
それで、音を受け取るの。
うたを歌いたい、その場所から。
でもそのためには、
その状態にいないといけない。
そういう意識の状態に。
これは内側の修行です。
公演を行う時には、
必ずしもそういう状態であるとは
限りません。
でも修行や稽古をしている時には、
こういう状態です。
公演の時は全て忘れる
公演をする時には、
全部忘れないといけないの。
習った事を全部忘れて。
まっさらな状態で臨むの。
何も知らない子どものように。
神様に自分を預けきって、
そのあやつり人形になるだけ。
リスクに思ったりはしないんですか?
リスクはありません。
実際、とても楽しいです。
何が起こるか分からないというのは。
何をするのか、
何が起こるのか分かっていたら
こんな事やっていないと思う。
(大笑い)
ヨーガと音の、より微細な側面の話が聞けて、
今まで全然知らなかった…
とてつもなく広い、奥深い分野です。
音というのは。
ナーダ・ウパーサナの行者がいて…
北インドで彼らの噂を聞いたんです。
音の行者の話
もし機会があれば、
ナーダ・ブラフマーナンダ
について調べてみて下さい。
シヴァーナンダの弟子だった人です。
(注:シヴァーナンダは多くの高名なヨーガ行者を育てた大行者)
ウッタラカシの。
彼は音の行者でした。
インターネットに、一つだけ映像が上がっています。
見た事があると思います。
頭を押さえて、すごく振動して…
それで誰もさわれないの、
「氣」のエネルギーみたいな。
音の力で、誰も彼にさわれない。
彼はただ音を発していて、
誰も彼にさわれないという。
彼は呼吸にあまりに精通して
完全に修得してしまったので
死を止める事もできてしまったの。
それであまりに歳を取ったので
最終的に川に入って行ったんです。
川に入る事で、身体から去ったの。
死ななかったから。
呼吸と音を修得したから。
音というのは本当に奥深くて、
インドには音に関する膨大な智識があります。
インドにはそういう古い伝統があるんです。
でもナーダ・ヨーガの行者は
滅多に見つけられません。
まず珍しいし、
音に取り組む人というのは、
あまり他の人と、
普通に交流する事ができないんです。
音の修行は彼らを、
とても隔絶した所に連れて行くから。
不思議な事ですが、
先程のナーダ・ブラフマーナンダ師は
誰にも、何も教えませんでした。
パンジャーブに学校があると
聞いた事がありますが、
どこにあるかは分かりません。
それから南インドにも、
伝統を伝えている人々がいます。
でもこれらの伝統は…
誰にでも開かれているものではありません。
そこに辿り着いた、ごく少数の人だけが
その智識を授かれるのです。
そういうものです。
でも本当に求めれば、
見つかるでしょう。
それに疑う余地はありません。
あなたの扉の前に来ます。
それで、
「ほら、見てご覧」
と言うでしょう。
そうでしょう、いつも。
ただ強く望むだけ。そうしたらやって来ます。
それからドゥルパドも、
ナーダ・ヨーガの修行の伝統です。
バウルにも似たものがあります。
シッダーの伝統にも。
音の修行だけやる人たちがいます。
バウルを修行する人
選ぶのは私ではありません、まず。
神さまが選ぶんです。
バウルというのは、
私がどうこう出来るものではありません。
私が好きにできるものではないんです。
私はただ、
この修行をするという祝福を
師匠に与えられただけ。
だから、できるのは
ただ修行を続けて、
受け取ったものを守って行く事だけ。
誰がやって来て、
誰が去って行くのかは
私が決める事では無いんです。
エクタラが自分で決めるんです。
誰が自分を演奏するのか。
それで誰か来て…
最も才能があるように見える人が
去ってしまいます。
それで、全然才能が無い、
これでどうするの、みたいな人が…
化けるんです、変容する。
2、3年で、ギョッとする勢いで
歌い出すの。
それで物凄く才能がある人は
やめてしまう…
それは、内面のヨーガだから。
内側のあり方。
それがバウルだから。
音楽では無いの。
だからバウルそのものが
誰がバウルを歌うのか
選ぶんです。
私に決められる事では無いし、
誰にも決められない。
私のものだと思ったらその瞬間に、
私のものでは無くなるの。
(上を指して)
全部あちらの望むまま。
特にお尋ねしたいのは、ヨーガと音の関係についてですが…
まずはバウルの伝統についてお話ししていただいてもいいですか。
そこから身体とヨーガと音の関係について、
語っていただけたらいいかな、と。