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バラタナティヤムが「インド舞踊」になるまで

バラタナティヤムは、現在インドを代表する古典舞踊と言われています。
ヒンドゥー神話を主な題材とする南インド・タミルナードゥの伝統舞踊です。

この舞踊について語る事には、少なからず躊躇いがあります。
というのも、まず舞踊人口がとても多くて、
あまりにも多くの言説に溢れていて、
気軽に言及するにはリスクが大きすぎる、という気持ちがありました。
今もあります。

「バラタナティヤム」の由来

よく、バラタナティヤムについて言われる事…
たとえば、最も古いインド舞踊であるとか
バラタナティヤムのバラタは
「バ」ーヴァ(情感)、「ラ」ーガ(旋律)、「タ」ーラ(拍子)
を意味するとか
が、一体何を出典として語られているのか、調べてみてもよく分からないのです。

あまりにも無邪気に、そうした言説が流通しているので
あえて冷や水を浴びせる事を言うのは躊躇われるのですが
私が語るならば、そこに触れない訳にはいきません。

バラタナティヤムの「バラタ」は、おそらく
ナーティヤ・シャーストラ【芸能の書】を記したとされる聖仙バラタから来ています。
ナティヤムは正確にはナーティヤム、舞踊の事。
ちなみに、インドのインド呼びは「バーラタ」で、
同じbhaでも「バ」が伸びるので違う言葉です。

「バラタ」を
「バ」ーヴァ(情感)、「ラ」ーガ(旋律)、「タ」ーラ(拍子)
とするのは、いわゆる言霊的には正しかったとしても
歴史とは分けて捉えた方が良さそうです。

〔リーラー・サムソン〕

「バラタナティヤム」以前

今日に繋がるバラタナティヤムの担い手は、
デーヴァダーシーという、いわゆる寺院巫女たちでした。
(この「巫女」といういかにも魅力的な言葉については、いずれ独立した投稿をして論じます)

バラタナティヤムと呼ばれるようになる前は、
クートゥKoothu、 サディルsadhir/sadir 、ダーシー・アーッタムDasi Attam「仕える女の踊り」などと呼ばれ、
宮廷や寺院で、舞踊や音楽を職能とする人々により継承されていたと言います。
地域によって踊りのスタイルには違いがありました。

女性はいわゆる「聖娼」であったと言われ、
女性は踊り手に、男性は音楽家や舞踊の教師ナットゥワナールNattuvanarになりました。
また、王家や有力者の家で、寺院への帰依の証として
娘をデーヴァダーシー(神に仕える女)として寄進する慣習もありました。

この系統の舞踊が南インドにしか見られないのは、
北インドではムガル帝国などイスラーム勢力の影響で
廃れてしまったからだ、と言われています。

19世紀初頭、デーヴァダーシーとナットゥワナールの家系の
タンジャーヴール・カルテットと呼ばれる四兄弟が
バラタナティヤムの舞台形式を整えました。
どのような曲・演目の順に踊るべきかという構成を整えたのも彼らです。
(Melaprapti, alarippu, jatiswaram, sabdam, swarajati, chauka varnam, ragamalika, padam, javali, and tillana)

彼らは南インド音楽の三楽聖の一人、
ムットゥスワーミ・ディクシタルに音楽の手ほどきを受け
トラバンコーやマイソールの宮廷にも招聘され
南インドの芸能に大きな貢献をしました。

ケーララ女性の古典奉納舞踊・モヒニヤッタム

南インド古典、カルナーティック音楽の歴史

聖娼の衰退と、舞踊家の躍進

19世紀から20世紀初頭にかけて、
英国統治政府によりデーヴァダーシーは
娼婦の一種とされ、社会的な地位や尊敬を奪われていきました。
ナウチ(踊り)ガール排斥運動により、
南インドでもこの種の女性舞踊はほとんど消えてしまいました。

このような情況で、最初に見出されたバラタナティヤムの踊り手の一人は
バーラサワスワティーでした。
1918年にデーヴァダーシーの血筋に生まれ、祖母は偉大な音楽家ヴィーナ・ダナンマル。
母も音楽家で、やはり音楽家の兄弟たちはのちにアメリカでも音楽を教えています。
初舞台は7歳の時。

愛国運動の盛り上がる時代、
ウダイ・シャンカルなど高名な舞踊家に支持され
(ビートルズのシタールの師匠として有名なラヴィ・シャンカールの兄)、
インドだけでなく世界中をツアーし、
アメリカには舞踊教師として多くの大学に招かれ、長く滞在しました。

〔国際的に有名な映画監督、サタジット・レイによる
バーラサワスワティーのドキュメンタリー〕

現代のバラタナティヤム復興の最も有名な立役者は
ルクミニ・デーヴィーです。
E.クリシュナ・アイヤールの提唱した
「バラタナティヤム」という名前を広めた人でもあります。

1904年にバラモンの家に生まれ、父親の影響で神智学に学び、
英国出身のジョージ・アルンデールと
当時としては非常にセンセーショナルだった国際結婚をします。

夫婦で世界中を旅し、その途上
名の知れたロシア人バレリーナ、アンナ・パブロワと出会います。
彼女の生徒の一人からバレーを習うようになりますが、
アンナ・パブロワには「自分達の伝統舞踊をやるべきだ」と言われます。

それをきっかけにバラタナティヤム(サディル)を学び、
1935年には初舞台を踏み、
それまで良家の子女がこのような踊りを公で踊る事は無かったため、
多くの批判を含めた大反響を巻き起こします。
1936年にはチェンナイに「カラー・クシェートラ」
という舞踊と音楽の学校を開き、
この学校は現在に至るまでバラタナティヤムを学ぶ名門として、
多くの高名な踊り手を輩出しています。

「バラタナティヤム」という伝統舞踊として
この踊りを打ち出していく過程で、
ルクミニ・デーヴィーは元々のサディルから
いわゆるエロティックであったり、
「(肉体的な)愛」の要素に偏った表現(シュリンガーラ・ラサ)を排除しました。

他にも、伴奏にヴァイオリンを導入したり、
衣装や装飾品、照明など、あらゆる点で
改革を行いました。

〔カラークシェートラとルクミニ・デーヴィーのドキュメンタリー前半〕

〔カラークシェートラとルクミニ・デーヴィーのドキュメンタリー後半〕

結果的に、「汚れた踊り」であった踊りは
ほんの10〜20年のうちに、
「バラモン的で清浄な伝統舞踊」と目されるようになりました。
今や、インドを代表する古典舞踊と言えます。

バーラサワスワティーとルクミニ・デーヴィーは、
1945年に公の舞台で衝突をした事が知られています。
バーラサワスワティーは、
王侯貴族などのパトロンを失ったデーヴァダーシー達の
あまりにも性的に偏った表現は批判しながらも、
「バラモン的」になりすぎた舞踊にも批判的でした。
(「バラモン的」だけでなく「ヴィクトリア的美意識」と言われる事もあります)

実際、ルクミニ・デーヴィーによる「バラタナティヤム」の確立
当初から多くの批判に晒されていましたが、
同時に、世間から受け入れられる形で舞踊が継承されて
批判も含めた議論ができる程に普及したのは
間違いなく彼女の功績でもあります。

1947年には、女性がデーヴァダーシーとして
ヒンドゥー寺院に捧げられる事を禁じる
デーヴァダーシー法が施行されますが、
バーラサワスワティーやルクミニ・デーヴィーにも教えたデーヴァダーシーである
マイラポール・ガオリ・アンマルは
その後もカパーリスワラ寺院で踊り続けていた事が知られています。

この法律は、デーヴァダーシーの女性も結婚する
権利を保障するものでもありましたが
デーヴァダーシーは娼婦ではなく、
舞踊や音楽の教養ある立場だと訴える
デーヴァダーシー達本人からは反対されていたそうです。

現在バラタナティヤムは、世界中で学ばれる、とても人気のある舞踊です。

そもそも巫女舞とは何か〜インドの巫女舞と呼ぶ前に

歌い舞うサディル、バラタナティヤムの前身〜寺社に属する女達

参考(All Retrieved on 3rd October 2019):
河野亮仙の天竺舞技宇儀⑭”by河野亮仙 (2019)
History of Bharatanatyam” by Rangashree
Dancer’s Paradise: T.Balasaraswati on Bharatanatyam” by Balasaraswati, translated by Shanmukha(?) (2001)
Bharatanatyam” by Subashini Pathmanathan
Tanjavur Quartet: a brief introduction” by Nandini Ramani (2016)
Sensual sringara to bhakti boredom: the brahminisation of Bharatanatyam“ by Lada Guruden Singh (2003)
Beatification Of The Erotic: this magisterial biography of a great artiste is unsparing on the forces and injustices that shaped Bharatanatyam” by Sadanand Menon (2011)
Balasaraswati vs Rukmini Arundale: the grand bharata natyam controversy” by Douglas M. Knight (2011)
The Journal from Sadir to Bharatanatyam” a video directed by Viveka Chauhan (2015)
英語版ウィキペディアの各項目

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