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非暴力は倫理ではない

「非暴力」について、
ここのところ何度か
聞かれることがあったので、

少しだけ、私の思うところを
まとめてみます。

まずは最初に、
「非暴力は倫理ではない」
というところから
始めたいと思います。

非暴力は倫理ではない

根本的に、ヨーガは
それぞれひとりの人間の
生き方、到達するところ
に関するものなので

究極的には、非暴力は
そのひとつの手段でしか
ありません。
有効な手段です。

厳格な非暴力主義で知られる
ジャイナ教の僧侶であっても、
自分は虫を踏み潰さないように
一歩一歩進んでも、
それは自らの魂の到達のためであって

世界中のすべての人間に
それを強制して、
けして虫の一匹も殺されることの無いように……
とは、しません
(自明のことですが)。

 非暴力主義と言えば、
ガーンディー翁が有名ですが
以前ここで少し触れたように

アンベードカルとガンディー 〜カースト差別と闘った双竜

彼の行いも、
一部では非常に批判・非難されています。  

「私を傷つけるのか」という圧は
それはそれで脅しにもなりうるし、
心理的な暴力手段になります。  

実際、自分のことを顧みても
「非暴力」に傾く
愛すべき友人たちを思い返しても
そこには、「傷つけられた痛み」が
強く関係していて
「傷つけることは罪だぞ」という
一種の攻撃的被害者性と
結びついていることは
けして稀なことでは無いように
思われます。

それは当然の事でもある
かもしれませんし、
社会運動やただ人間として
生きていく上では、
否定されるべきものではありません。

ただ、
少なくともヨーガや修行の観点から見た時、
それはただ単純に取るべき道である
とは言えない、
のでは無いのでしょうか。

「暴力」という言葉の罠

思うのは、
物理的な「暴力」あるいは
心理的な「暴力」、
社会的な「暴力」……
どれも、比較的
人の目や感覚に映りやすいもの

これらと、
ヨーガ的な「非暴力」は
そもそも分けて考えなければいけない
のではないか、ということです。

大体、ヨーガの聖典
バガヴァッド・ギーターにしても
戦場で、敵方に
大勢の親戚や師匠がいることを
改めて認識して慄いたアルジュナ王子が
「家族と戦うなんて恐ろしい罪を
犯したくない、もう戦いたくない」
と嘆くのに対して

クリシュナが、
人のなすべき事はそのような
ものではないと、
人のあり方を示すものです
(つまり、アルジュナは
師や親類と戦うべきであると)。

これも、あまり文字通りに
捉えられると、
畢竟で現代的な読み方
ということになるので、
注意が必要なのですが

それはそれとして、
これひとつ取っても、
「アヒンサー/非暴力」というものが
現代的な感覚のままでは
捉えられないということは
分かると思います。

インド神話には、生まれた途端に
殺される赤子の話が
多く出てきます。
普通に考えれば残酷な話で、
神話の中であっても、
人間は嘆き悲しんだりしています。

しかし神話の中では、
それはそのカルマを必要とした神々が
そのためだけにその赤子として生まれ、
そして殺される事で自由になっていった——
という、
人の身には知り得ない背景が語られます。  

こうした背景に立った上での
「非暴力」であり、
「慈悲」だったりするのです。

個という幻そして現実

先に、非暴力は
自らの魂の到達のため
と書きましたが、

これも留意していただきたいのは
ただの個人主義ではない
ということです。

その根本には、ひとりの人間の
魂の成長は、
世界そのものに関わるのであり
周囲の人々や
世界そのものも恩恵を受けるものである
という、語るほどでも無いような
了解があります。

暴力とは傷つける事
だとすると、
必ず傷つけられる存在がある訳ですが

傷つけられるという体験自体、
「個」という認識に立っている
事もまた、確かです。
爪や髪が切られても、
木から葉が落ちても、
それは「傷つけられた」という体験にはなりません。
(暴力として敢えてされた場合を除いて)

心や体が傷つくことをタブーとするなら
師弟関係など、そもそも
成り立たないでしょう。
(表面的な傷さえ付かない成長など
ありうるでしょうか?
あるのかもしれませんが)

厳しさというものについて

こうした、ある意味では
とても乾いた認識の上で、
それでも「非暴力」を実践する
のが、修行者というものです。

もちろん最初は、ただ倫理的な、
感情的なものとしての認識や
実践でも良いのだと思いますが、

深く考えや想いを馳せるのであれば
この世が、いわゆるところの
「暴力」なしには成り立たない
ことは自明のこととなるでしょう。

非暴力の実践は、ある意味では
人生へのとても現実的で実践的な
科学的なアプローチである
と言っても良いと思うのですが、
こういう事を言うと
また一面的な捉え方になってしまうので
あんまりしない方がいいかな。

一応付記すると、
ただ淡々とマニュアルのように
「非暴力」らしきことをする、
という事ではありません
(そんな態度でできるような
単純な実戦ではありませんが……)

本当の「無条件の愛」は
すべてを超越すると言われているのは、
こうした様々を——
暴力とか、罪とか、欲とか——
すべてを受け入れ飲み込み昇華した、
その上での愛であり、慈悲だからです。

「無条件の愛」と訳される概念について

それは、ただ単純な、
一般的と言われるような
常識とか、倫理とか、価値観から
判断できるような類のものでは
無かったりします。

いつも言う事ですが、
ここに書いたのは、ただ私の
パロミタという個人の
現時点での考えなので、
あんまり真に受けないでくださいね。

  

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