🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

身を守るとか、安全とか、について

女性とか、身を守るとか、安全とか
そういうことについて、
ちょっと書いておこうかなと思いまして……
試みとして。

私は、日本ではあまりナめられないので
セクハラ的な嫌な思いをすることは
あんまり無いのですが

インドに行くとそのバリアも効かない
(効かなかった)ので
それなりに嫌な体験もしています。

だからできる限り、
ホテルにひとりでは泊まりたくないし
一部の例外的に治安の良い場所を除いては
暗くなってからのひとりでの外出は
あんまりしません
(と言いつつ、昔は結構してたか)。

悲惨な事件の起こる率で言うと、
まあ人口も多いので分からないのですが、
やっぱり数としてはインドの方が多いですよね。たぶん。

あまり一般化はできませんが、
インドの女性が、たぶん一見からは意外なほど
めちゃめちゃに気が強い一面もあるのは
そういう側面もあると思います。

自衛という言葉に
抵抗がある方も多いと思いますが、

私自身は、幼い頃から強さへの憧れがあったので
ある程度それは自然なものとして受け入れていて
それこそインドでは、
「何くそ」の気概で歩いていたりします
(今はもうちょっと、違っているかな)。

「結局誰も助けてくれない」というやるせなさを
より明確に自覚することは、
圧倒的にインドにいるときの方が多かったです。

ただ、私はたぶん、この課題を
昨年通過してしまったので、
もうこういう風に感じることは無いだろうなとも
思っています。
このあたりのことは、下手をすると
誤解を生んでしまうかなとも思うのですが

世界が優しくなった日

↑前に書いた、この記事のような
シフトが起こった、ということです。

いわゆる
「加害する男性性」の強烈さと同じぐらい、
「守る男性性」が当たり前のものとしてあるのも
インドです。
常にこれが互いに熾烈に拮抗しているような
そんな印象があります。
たぶん、インドでは見えやすいだけで
どこでもそうだろうし
別に「男性性」と言わなくても本質的には良いのでしょうが
(その辺を定義しようとすると非常にややこしいので)
とりあえず分かりやすいのでこう書きます。

今ではインドに、
アシュラムという居場所がある私は、
基本的にはめちゃくちゃ守られます。
その辺の村の人から、
妹・弟たちに至るまで、よく分かりませんが
娘や姉として、
守ろうとしてくれます。

まあ、危険の認識があるからこそ
守ろうとしてくれるわけだし

守ろうとすることは、
親子関係の難しさを見るまでもなく
時に拘束になるので
それも一面的には語れるものではありませんが。

9つの人生』(ウィリアム・ダルリンプル著、
パロミタ友美訳、集英社新書)や
インド残酷物語』(池亀彩著、集英社新書)への
反応を伺っていて、

インドの社会構造の酷さ、後進性に
衝撃を受ける場合も多いようなのですが
私の個人的な所感では、
それ自体が、日本とそこまで違うとは
思えないところがあります。

そこが地獄であるか天国であるかは、
結局は個人によって違い
必要以上に悲観することも、
能天気すぎる見方をすることも、
当事者以外はすべて的外れで

その前提に立った上で、
できるだけ心のレンズを磨いた状態で
どのように見るか、なのだと

日本で痴漢に遭ったことが無い私は
日本の電車での痴漢体験談をさっき読んでいて
この方たちにとって、
日本が安全な社会だとは言えないだろうなと
改めて、思ったのでした。

で、最近、女性の護身術の動画で
初めて「分かりやすい、実践的」
と思えるものを見かけて

技自体はさほど真新しいものではないのに
どうしてかなと思ったのですが

たぶん、襲う側の想定として、
女性(子供や男性だとしても)を
襲うときの攻撃モードって、
たぶん他の攻撃モードとは違うんですよね。

圧倒的に弱者と認識して
生け捕りに来る、という感じに近いのかな。

言いようによっては、そういう自分の世界観に
こちらを巻き込みながらやって来る。

私は十代から武術をやっていたけど、
そういう意味で
「即物的に実践的」と思ったことは無くて
だからこそ身体性の追求に
シフトしていったところはあるし

何より、「そういった状況に陥らない」
「行き遭わない」方がむしろ
武術の効能だと思うようになったところもあって
(野生の勘を養う的な)

それが実際どうなのかは分かりませんが、
私自身はそういう方向に来ていることは確かです。

動画を見つけた元記事

護身術の知識、習熟がない状態で性犯罪に遭遇すると、一般的には「凍りつき現象」により抵抗ができなくなることが多いが、護身術は被害後の回復にも肯定的な影響をもたらすことが立証されている。性犯罪被害後に護身術を含めた自己防衛プログラムを受けると再被害が減りトラウマの治癒が早まることも明らかになっている。
そればかりでなく、仮に被害を受けてしまったとしても、抵抗した場合と抵抗しなかった場合では心理的回復にも著しく差が生じるとギテさんは言う。

引用元リンク

とあって、
ああなるほど、これが私が
物理的な強さとして欲しかったもの
なんだな、と思ったのは

つまり、
「いざという時に具体的にどうにかできる(気がする!)自信」
なのだと思うのです。
経験ベースの。

根拠が無かったとしても、
日常を生きていく上で必要なのは
まずはそれなのだと思います。

そしてこの護身術は、
ひとつの体験として
「どうにかできる根拠」の種を
植えていけるものに見えます。

(あと、「ここまでやったら逃げる」
というのがめちゃくちゃ現実的というか
「傷つけたくない」という恐怖と
矛盾しないものがある)

いわゆる攻撃する気満々、とか
ハナから戦う気満々、の想定は
少なくとも喧嘩屋でもない私にとって
現実的とはあまり言えなかったんですよね。
(もちろん、スラムなどに住んでいたら
話は別だとは思います)

 

なんでこんなこと書くの?
と、思われる向きもあるかもしれないのですが

私は、現実を全く無視することが
ヨーガだとは、全然思っていなくて

むしろ現実を透徹して直視した上で、
その上で決めること、
その強さ、だと思っています。

ヨーガには、やっぱり、あのインドの
厳しい社会の中から生まれてきた
苛烈さが一面ではあります。
苛烈さゆえの深い慈悲が。

透徹して直視、は、言葉ほど簡単ではなくて

本当に神にだけ頼って何もしないでいられるのは
完全にすべてを放棄した人だけなので

そしてそれは、どんな悲劇だとしても
神からの贈り物として受け入れよう
という覚悟ですらあるから

少なくとも世俗を保って生きているうちは、
現実的な生活を、ただ普通に
それだって様々な基準やレベルの違いはあれど
ありますが
現実的にやっていくことは普通にあります。
行者でもね。

やれることをやったら、
あとは天に運を任せてハッピー、でいいと思うし
その基準は人によって違いますが。

たぶん私だって相当、
浮世離れして思われている部分も
あるとは思うし
それを否定できるのかどうかは分かりませんが

法律がどうとか社会の仕組みとかは
やっぱり私の担当するところではありませんが

個人として、こういったことは
少なくとも、非暴力と矛盾するものではありません。

非暴力は倫理ではない

採用するにしてもしないにしても、
自分で決めて最後まで納得し切る強さが無ければ
結局、慈悲だって砂上の楼閣
あるいは一時的な、季節性のものなのだから

少なくとも何かを行じるなら
まずはまっすぐ見ていくこと

だということで、何というか一度ぐらいは
書いてみようかな、と思ったのでした。

まあでも、世界を敵と想定するのを
肯定するものではありません、とは
一応付記しておこうかな。

本質的には、世界は優しいものだと思っています。

では。

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