🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

奉仕[セーヴァ]とはどんな事

私が数人と外食をした時、取り分け役を
積極的にやっていると、意外に思われるかもしれません。
これは、私が女性の役割だからとそうしている訳ではないのです。

男性でも、他の人にサーブをして
皆が食べるまでは自分はけして食べない、というような人を
私は見て来ました。

インドの男の人が皆そう…という訳ではもちろん、ありません。
むしろ、そんな事思い付きもしない、という人も多いかと思います。
というか、多分そういう人の方が多いです。

私がそういう人を見る事が比較的多いのは、
アーシュラムという、一般的に「修行道場」と訳される環境
にいる事が多いからでしょう。
けれども一般家庭でも、お客さんに対してはそうするという
男性もいらっしゃいます。

この精神、「他者を第一にする事」は、
私がインドで学んでいる一番の事
と言っても過言では無いと思います。

抑圧では無いのです。
自己卑下とも違います。

あくまで、心から出たものではないと意味が無い…
と言いながら、形から入って初めて魂が付いてくる、という側面もあります。
ただ、望んでする事でなければいけない、という事は確かです。

心から人の喜びのために動きたい、という
才気に溢れた男性達や女性達を見て、
私もまた刺激やインスピレーションをいただいて、
そうなりたいと思うようになりました。

たとえば、ケーキを人数分に切って、
最後のひと切れを自分が食べようとしていた時に
もう一人現れた。

その時に、息をするように自然に、
「これあなたの分だよ」と言える事。

「いや、あなた食べてないでしょ」と返されたら、
「実はお腹空いてなくて」とか、
「まだあるから」「さっきちょっとつまんだから」など
とにかく相手が気持ちよく食べられるように配慮した言葉を言う。

こういった事を、息をするように自然に、
そして気持ちよく、喜びと共に、本当にするのです、彼らは。

私は「バウル」という伝統の修行をしています。
歌舞いが特徴的で、とても知られている伝統ですが、
実のところ、一番の修行はこうしたセーヴァ(奉仕)の行です。
師に、その周囲の人に、そしてやがては
全ての人の、そのそれぞれの中にまします神に奉仕する事です。

セーヴァは、英語のservice (サービス)とおそらく語源を同じくする言葉で、
仕える事を言います。

インドには、「セーヴァをしたい!」という人がたくさんいます。
「ボランティアをしたい」に似たところがありますが、
このセーヴァは無私を基本とし、報酬が発生するとすれば、善行をした事による功徳。
「徳にあやかる」事が見返りです。

私自身の体験からお話をしますと、
自分の事ばかり気にかけるのは、息が詰まります。
鬱の方向に行きそうになるのはそういう時で、
他者のために動き、祈る事ができる時、全ての風通しが良くなります。

発声の仕方さえ、その心持ち一つで大きく変わります。

とはいえ、それでは本当にただ「自分のため!」になってしまうのですが、
とにかくまずは行動から変えていく事です。

「カルマヨーガ」とも言いますね。
「カルマ」は「業」とか「因果」とも訳されますが、
ごく単純な訳は「行動」です。
いわゆる善行のヨーガであって、それによって良いカルマを積むという事です。

今、日本語で「奉仕」と言うと、どこかネガティブというか
卑屈であったり、抑圧されていたり、
そういったイメージが付随して来るように思います。

丁寧なサービス精神は、常に繊細な心遣いと、形式主義のせめぎ合いとなり
「おもてなし」という言葉も、心尽くしの善意という意味を保ちつつも、商売の所有になりつつあります。

こうした文化があるから、インド人の日本人への印象は
良い事も多いし、
私自身、「日本人っていい人が多いな」と思う事もあります。

それでも、ここで書いたようなセーヴァ、奉仕の精神の「魂」は
現代の日本が多分に失ってしまったものであると感じます。

ほとんど同じ「魂」を私が日本で初めて本当に感じたのは、
師匠に付き添って修験道の方の歓待を受けた時です。

インドでの女性への抑圧や、様々なカーストや職業に関わる差別は
厳然たる現実として存在します。
けれどもそれとは全く違う次元での話として、
このセーヴァの伝統は力強く文化と精神性を支えているのです。

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