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お金の話

Ami kangal doyal guru amar mon to kangal noi

わたしは貧しいけれども
心は貧しくない
大悲の師よ
ハリの名の甘露を呑んで
いつでもその名に狂っている

何でも本当に願ったことは
その人の内にバクティ<献身の愛>があれば
大悲の師が叶えてくれる
果実が実るも実らないも
すべては師の恵みによるもの

大悲の師とは
いと慈悲深き存在
そのように聞きました
あなたの恵みが無ければ
誰も動くことすらできない
ある石に空いた穴に虫が一匹
全ての恵みはヨーガの中に

ラロン・ファキールは言う
この世にやって来て
苦しみまた苦しみのうちに
人生は過ぎ去っていき
いったいどうすればよいのか
この苦しみを拭い去る人の
おみ足に帰依します

ラロン・ファキールのうた
パロミタによる訳

※私の学んだバージョンを訳しているので、
上に置いた動画で歌われているものとは
若干詩が違います。

これはバウルのうたの中では
おそらく割に知られたうたで
(ラロン・ファキールの作品ですし)

最初に習った時は、
ベンガル語がほとんど
できなかった事もあって、
「ふ〜ん…」というぐらいの感じでした。

バウルは、ずっと
貧しい人々の間に
生きてきました。

貧しさゆえにバウルへの道を
踏み出す人も多かったようですし、
何より、托鉢に応えることで
バウルを支えて来たのは、
貧しい農民たちでした。

私は、極端な貧乏は
したことがありません。
恵まれた育ち方をしてきたと思います。

そんな私が、
バウルを学んで、何かを
分かるということができるのか
とか

本当の貧しさを
経験したことがないことの
劣等感というか、
引け目のようなものも
持っていたと思います。

また一方で、ある種の
物質的に豊かな背景を持つ
人間にしかわかりえない鬱屈や辛さが
あるようにも思っていました。

そんな私ですが、
ここ一年ほどは
2、3ヶ月にいっぺんは
「今月こそは乗り切れないかもしれない……」
と心臓をキリキリさせている
という状態で

これを書いている今もまさに
「今月こそは無理か……?」
という疑念が湧いてきては打ち消し
抜けてはまた囚われ……という
ただ中にいます。

それでも、本当の貧しさとは
言えません。
どちらかというと、
「本当の貧困状態に入るかどうか」
というところで、
かなり呑気でお気楽な悩みで
遊んでいるだけのようにも思います。

とはいえ、
十分に稼げていないということ
は、それだけでキツいもので
それがいくら妄想だとか、
思い込みだと分かってはいても
制御が難しい。

お金というものは、
考えれば考えるほど
実態が無いのに
不思議なほどに人心を縛ります。

高橋竹山も、
カナイ・ダス・バウルも
貧しい人ほど心は開かれ
お金のある家ほど
扉は固く閉ざされている
と言っています。

とはいえ、
一度お金のある生活になった
社会が、人が
お金の無い状態に戻ることは
至難の業です。

「どのように生活を
成立させるか」というところで
ここ数年は私も、
お金を稼ぐための勉強を
それなりにして来ましたが

究極のところ、ほとんどの稼ぎ方は
詐欺と変わらない……
つまり、「思い込ませること」
と中間搾取
に終始するのだな、と思い至り

そうでない稼ぎ方は
どうやって成り立っているのか
不思議でたまらない、

いったいお金はどこから来て
どこから行くのか?
……という思考を
今はゆらゆらとしているのですが

このブログも、当初は
ある程度収益化を
目的としていたのですが
今は、少なくともあからさまに
そういった目的の事をするのが
一切合切嫌になってしまい
こんなのんべんだらりとした
文章を書くようになっています。

当初、「お金を稼ぐことだけを重視するなら」
と仮定して考えてみた案で
私の倫理にはそぐわなかったものの
ほぼそのままのような内容を
この頃Facebookやインスタ広告で
見かけるようになり、
「あの時血迷って手を出さなくて、
本当によかった……!」
となっています。

とはいえ、お金を
悪いものだと思っている訳では無いのです。
良くも悪くも、
ひとつの表れにすぎない、
と思っています。

ただ、何というか、今の私には
理解の範疇を超える存在なんですよね。

「詐欺と中間搾取」という
悪く聞こえる書き方をしましたが、
それも、悪いのではなく、
ただそういうもので、
それを私は選びたく無いだけ、
なのだと思っています。

(何度か書いている事ですが
マスクが体質に合わないことで
搾取される層に入る機会も
ほぼ失いました)

今まで触れて来た中で
最も「生きた」お金だな、と感じるのは
作品に対していただいたお金。
投げ銭としていただいたお金。
そして、私自身が、何かを支持し、
貢献するために捧げたお金。

生活の不安に襲われる時、
思い出すのは、ヨセフのことです。

旅の行者ヨセフのこと

「私を本当に信じ仕える人は
私が面倒を見よう、と聖典には
はっきりと書いてあるのに
誰も本当に信じてはいないんだ」

と言った、20年以上旅を続ける行者の言葉。

こういった
行き当たりばったりに見える
生き方は、世間一般では
非難されるものなのだと思います。

それでも、行者として生きることを
本当に選んだ時から、
そうした常識を言い訳にこねて
無駄に苦しんだり、逃げることを
選ぶことはできなくなったのです。

何だかんだ、ギリギリになると
どうにかこうにかなるので
それは本当にグル・クリパー(恩恵)なのだと思っていて
それは他人から見ると
宗教的だったり、盲目的だったり、
迷信じみてしか見えないのかもしれませんが
それでも行者として生きるということは、
それを本当の真実として生きるということ。

もちろん、実際の現象としては
家族も含めた他人におんぶに抱っこで
感謝してもしきれない相手が
日に日に増えていきます。

その感謝の対象が
ひたすらに広がっていくことも
グル・クリパーだと私は言います。

乞食になるということは、
良い言葉も悪い言葉も
どんな反応も、
等しく神の恩恵だと理解すること
なのだと教わりました。

(一応付記すると、
私は乞食の灌頂は受けていないので
勝手に参考にしているだけです)

それで最初のうたに戻るのですが
この半端な金銭的な苦労であっても
これまでとは一層違う認識として
今、また迫って来ています。

わたしは貧しいけれども
心は貧しくない
大悲の師よ
ハリの名の甘露を呑んで
いつでもその名に狂っている

何でも本当に願ったことは
その人の内にバクティ<献身の愛>があれば
大悲の師が叶えてくれる
果実が実るも実らないも
すべては師の恵みによるもの

大悲の師とは
いと慈悲深き存在
そのように聞きました
あなたの恵みが無ければ
誰も動くことすらできない
ある石に空いた穴に虫が一匹
全ての恵みはヨーガの中に

ラロン・ファキールは言う
この世にやって来て
苦しみまた苦しみのうちに
人生は過ぎ去っていき
いったいどうすればよいのか
この苦しみを拭い去る人の
おみ足に帰依します

(ラロン・ファキール)
訳責:パロミタ

修行が進むにつれて、
うたの認識が変わってくる。
それこそがバウルのうた
なのだと思います。

う〜ん、やはり宗教的だと
引かれてしまうのかな。
でも仕方がない。

まあ色々書きましたが、
私の中の色々な滞りがササッと解決して
早く師匠やバウルへの恩返しや
周囲への貢献が
できるようになりたいな〜
と思っています。

とりあえず今月を乗り切れますように。

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