🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

心は心臓なのか問題

Hridayaは英訳するとハートで、
般若心経の「心」の部分ですが、
英語のHeartが心と心臓を兼ねるものだから
もうほとんど自動的に、
Hridaya=心=心臓
という理解をしてしまっていたのですが、

ん??? あれ、 ひょっとして、
心臓 ではない???
とふと思いつきまして、
調べてみました。

結論から述べれば、
そうともそうでも無いとも言える
というところです。

そもそも英語のheartを
「心臓」とするのはいつからなのか
から調べてみても、
イマイチよくわかりませんが、
古代ギリシアでは紀元前から
この臓器の存在を知っていたようで、
その頃からこの臓器自体、
心や感情のありかと
されていたようです。
英語Wikipedia参照)

古英語のheorteも、
心臓の他、胸や魂、心などの意味合いを
持っています。

インドにおけるハート、
マルマ(ツボ)的なHridayaは
胸の中央あたりなので、
心臓とは異なる……が、
解剖学的な知識が入った理解?
だと、心臓をそう呼ぶこともあります。
(ここまでは伊藤武著
秘伝マルマ・ツボ刺激ヨーガ」で確認しました)

ということで、 初めて
アーユルヴェーダ系の論文
を読んでみたのですが
思いのほか、興味深く読めました。

両胸の中央にあるマルマとしてのHridayaと
臓器としての心臓としてのHridayaが
重なり合うのはここでも同じです。

Hridayaは拍によって
プラーナの道筋を統制する存在であり
身中のあらゆる液体を集め
また流通させる機関、だそうです。

「中心」的な意味合いで
使われる事もあるのは、
Hridayaも、Heartも、
漢字の「心」も同じです。

バウルのうたで、よく
Hridayaの蓮、
このHridayaに来て……
このHridayaの楽園……
のような表現があって、
少なくとも胸のあたり
であることは確実で

このあたりは、
感情などを司っている
と言われています。

でも私は、何となくずっと、
肚の方ではないの?
と思ってしまうところがあって、

たとえばAntar dwar
「うちなる扉」と言ったら
この扉の場所は胸?はら?
などと考えていた……
のが、ほんの半年ほど前なのですが

最近、本当にごく自然に
この扉を胸と理解している
自分に気がつきました。

そう、何だかいつの間にか
なぜ胸に「かの方」を呼びたいのか
ごく自然に分かるように
なっていたのです。

たとえば、なぜクリシュナ神
そのひとではなく
その生まれ変わりでありながら
クリシュナ神を称える
聖者チャイタニャを呼ぶのか?
という疑問も、

「この胸の中で、ハリの名を
うたい続けてほしいから」
だと、ごく自然に
分かるようになっていました。

たぶん、はらは
それ以前の話というか
その先の話というか
そのもっと深いところ、
根源的なところに繋がっていくから

まず働きかけるのは、
より表層に近いところの感情で
そこに働きかけて、変容しながら
そこからより深いところにいく

だからこそ、まずは胸なのだな……
というような感覚? が、今はあります
(間違っていたらすみません❤️)

古代ギリシアから
心臓と感情や心が
関連づけられていたぐらいだから
感情を司る場所としての
胸、ハートは
おそらく人類の直観的な
自然な理解としてあったのでしょう。

イエス・キリストが
「憐れみを覚える」時のギリシア語表現
「スプラングニゾマイ」は
「はらわたを突き動かされる、引き絞られる」
意味だそうで、
その更に元となるヘブライ語は
子宮という言葉を使うそうですが

おそらくこれは
普通の感情よりももっと深い
より根源的なはらに関わる
衝動や反応であって

心のありかをどこにするかは
単純にひとつの「どこ」と
言えるものではないのだと
今は思います。

丹田でさえ、
上丹田・中丹田・下丹田と
三つある訳で。

もちろん、そもそも
「心」の定義は何だったのかとか
「こころ」「たましい」「おもひ」
の違いとか、

語ろうと思えば、語るべきことは
いくらでもあるのですが

とりあえず一般論というか
ふわっとした概観を言うなら
こんなところかな、
と思います。

 


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