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よい人間になりたい〜ヨガをすると人格が良くなるのか

「ヨガをしてる人」
って、どんなイメージがあるでしょうか。

周囲を見渡していると、
2種類のイメージがあるようです。

ひとつは、
・ 健康的
・ 格好いい、スマート
・ オシャレ
・ 人生が充実してる
系の、ポジティブなイメージ。

もうひとつは、
・ ポジティブな言葉がうるさい
・ 幸せと言ってるけどそう見えない
・ 意識高い系
などの、ネガティブなイメージ。

実際、ヨガをやると
どんな良い事、あるいは悪い事が
起こるのでしょうか。

ヨガは人を良い方向へと導くのでしょうか。

今日のテーマは、
「ヨガと慢心」
です。

ヨガの基本は、より良い人類になる事?

ヨーガには「八支則」という
8つの約束ごと、
もしくは構成要素の段階があります。

1. ヤマ(暴力をふるわない、嘘をつかないなど、してはいけない5つの事)
2. ニヤマ(足るを知る、清潔にするなど、するべき5つの事)
3. アーサナ(坐法、もしくはポーズ)
4. プラーナーヤーマ(呼吸法)
5. プラティヤーハーラ(感覚のコントロール)
6. ダーラナー(集中)
7. ディヤーナ(瞑想)
8. サマーディ(三昧、いわゆる悟り)

ざっくり言うと、
仏教みたいなもので、
基本的には(乱暴に言えば)
むやみな執着から逃れて
よい人間になり、
自由になりましょう、
というような事を言っています。

もちろん正確には仏教とは
違うのですが、
何となくのイメージとして
こういう表現をしています…

実は、仏教もヨーガも
元を辿ると、
同じところから
発展しているのですが、
それはここでは置いておいて。

これだけ見ると、
よい事しか無いように見えます。

実際、本来は、
人を良い方向に導くものです。
どんな哲学も、あるいは宗教も
そうであるように

本来は、
人生を、人類を
より幸せにしようという願いから
発生、発展しています。

しかし、皆さん
「野狐禅」という言葉はご存知でしょうか。

「禅」は座禅の禅で、
上の8つの約束で言うと
ディヤーナ(瞑想)を起源にする言葉ですが

本来清らかで良いものであるはずの禅でも
修行の仕方を誤ると
「野狐」つまり
思い上がったケモノの
まがいものの禅になってしまう、

…ざっくり言うと、
いやな人間になってしまう、
という意味です。

ヨガの「超能力」の落とし穴

私が、まだヨガの
右も左も分からない頃

シヴァーナンダの本を読んで

「ヨガをやっていれば、
シッディ(超能力)が身につく。
それは当たり前の事だ。
しかし、そこに留まっていてはいけない。
それは修行者を陥れる罠だ」

というような事が書かれていて
(記憶を元に書いているので
間違っているかもしれません)

「超能力??? なんじゃそりゃ」

と、思いました。

私は今も空中浮遊や
水上歩行はできませんが

そこまではいかなくても、

たとえば、人を見た時に
大体の身体の状態が
何となく分かるとか

アヤシイ話に聞こえるかもしれませんが
手とか足とかに
気が通っている(かもしれない)とかいないとか

それぐらいの事は、
たしかに、普通に分かるようになります。 

「何で分かるの?」
と言われる事もありますが、
そう言われても
「え、だって分かるじゃん」
としか言えない、
あえて言うなら
「見える」感覚に近いかもしれませんが
物理的に見えている訳ではありません。

これは、私にとっては
ただの「普通の事」になってしまいましたが
割と不思議がられるので

こういう事が、
「超能力」と表現されていたものに
繋がっていくというのではないかと
思います。

(「超能力」というのは
翻訳の問題もありますが)

しかし、ですね。
そうすると、

状態が分かるので、
人に色々言いたくなったり、
何だかアドバイスが言える身分になったと
勘違いをし出したり

つまり、慢心をし出すのです。

私が整体の勉強をやり込んだとか
そういう事なら話は別かもしれませんが
そういう訳ではないし

分かる事と、知っている事の
区別もろくにつかない状態で
口を出すものではないし

そもそも、人に押し付けるものでは
ありません。

でも、ウッカリ気を抜くと
ついやってしまったり
するのです。

これは、健康に関する事や
食に関する事でも
「ありがた迷惑」が起こりがちな
ところだと思います。

こういうところから
修行や努力をして
何かができる・分かるようになって来ると
自然と慢心が起こるようになって来ます。

誰もが通る道ですが、
できれば早く通り抜けたい
道です。

「行動のヨガ」「奉仕行」にも落とし穴はある

こういった事があるので
ちゃんとしたヨガ・センターだったら
カルマ・ヨーガ(行動のヨガ)や
セーヴァ(奉仕活動)が
重視されます。

ただ行に打ち込むだけでは、
本来を忘れて
天狗になってしまうかもしれません。

だからこそ、師やコミュニティ、社会への
奉仕・貢献が重要になってくる訳です。

しかし、今度はこの
「私は貢献している」という自負が
慢心を引き起こします。

また、これらは、いわゆるカルトなどで
悪い方向にも利用されて
しまいがちなコンセプトですが…
ここでは脇に置きます。

ヨーガは
「信じなければいけない、しかし盲信してはいけない」
「考えてはいけない、しかし妄信してはいけない」

常に自分自身に問い続け
深く向き合っていくのでなければ
簡単に、
人間の業という落とし穴に
足を取られて、
まっさかさまに落ちてしまいます。

ヨガは昔は「秘密の教え」

ヨガは、元々は密教
つまり、「秘密の教え」
20世紀になり、
色々な経緯があって
今の形になり普及しました。

だからすごーく元々のところは、
「誰でもできる」前提で
組み立てられてはいません。

極端な話、
極寒のヒマラヤの山中とかで
過酷な修行に取り組んだりとか
そういう人たち向けのものでした。

もちろん、今普及しているヨガは
誰でも取り組めるものとして
この現代に必要なものとして
先人が様々に工夫・発展させてきたものです。

この記事では、
ヨガと言ったり
ヨーガと言ったりしていますが
「ヨーガ」と呼ぶ時は、
元々の形や、古い時代の教え
というニュアンスを
持たせて使っています。

ヨガとヨーガの違い、その語源

昔は、伝えている流派によって
原理は同じでも
細かいやっている事や
理論も違いがありましたし
今ほどに
ポーズも発展していませんでした。

今のヨガは
単なるエクササイズだ、
と揶揄される事もありますが

単にエクササイズや
健康法としてやるなら
逆に、
うまく楽しんでいて
それはそれで良い訳です。

この本とか、すごく良く
ストレッチ的なヨガを活用していて
とてもいいな〜と思いました。

でも、もっと先に進みたいなら
ここに書いたような
落とし穴だらけの荒野に
宝を求めて旅立つ事になります。

ヨガをすると人格は良くなるか?

「ヨガをすると人格が良くなるのか」
の問いに答えを返すとすると、
「そうだといいな」
になると思います。

ここまでお読みいただければ分かるように、
ひたすら、自分に向き合っていく事、
飽くこと無き追求を
まずできる段階に到達するまでが
試験というか、試練のように思われます。

途中で慢心しても、
「本人が幸せなら良いか」
という事になるだろうし、

そもそもそこまで
意識的でいる事自体が
難しい人もいるでしょう。

人格が良くなるようなヨーガを
皆ができるといいですよね。

できれば適切な師を得て、
更に己を曇りなく見つめ続ける
普段の取り組みができるなら、
可能なはずです。

「できれば」と書いたのは、
この世には稀に、
人間の師を得ずとも大成する
アヴァドゥータ(生まれながらの覚者)が生まれるらしいから、ですが
大多数の人は
師匠につかなければ難しいかと思われます。

師匠に真っ当につく事の意義、
その大きさは
体験した人にしか
分かりません。

その分、
「師は三年かけても探せ」
と言われるように、
それだけの師に巡り会う事は
並大抵ではありません。

オウムの例を出すまでも無く
「グル」による
弟子や信者の搾取・洗脳のニュースは
後を絶ちません。

彼らは、ヨーガの「罠にはまった」
いわゆる闇落ちをしてしまった
最たる例と言えるでしょう。

だからこそ、
「密教」と言われるように
多くの教えは長い間
師に認められた人間にしか
伝えられる事が無かったのです。

それでも、
このように広く広まる事は
時代の要請であり

それならば、
できるだけ多くの人が
その恩恵にあずかれると
いいな、と思います。

あくまで良い方向に。

**

私の学んでいるバウルは
そんなヨーガの、
古くから続いている流れのひとつで

その修行や智慧が
歌や舞いという表現を取ります。

定期的に公演をしていますので、
よろしければぜひ、
いらして下さい。

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