🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

厳しさというものについて

あるグルが「厳しい」と
形容される時、
その厳しさとは何だろう。

ということが、かなり何年も
ずっと疑問でした。

日本でもよくある話ですよね、
厳しさの名の下に行われる
暴力や抑圧、弱者への八つ当たり。

それでは、そうではない
「厳しさ」とは何なのか。

厳しさという概念、アイデア、コンセプト。
厳しさというもの自体
現代人には扱いがたい、
理解しがたいものなのだと
今は思います。

今は、誰しもが平等で
先生と生徒も
対等に、友人のように
接することがスタンダードというか
求められている時代
と言えるでしょう。

厳しさは、誰かが
誰かよりも、絶対的に
知識や、能力や、賢さや
何かしらにおいて
他の誰かよりも優れていて

その人の判断において
他者に対してなすことを
正しいと前提する

そうした土壌において機能する、
成立する、花開けるものです。

誰もが全てにおいて対等である
という前提では
「今は理解できなくても
この人がなすことは意味がある」
という留保や信頼が機能せず
誰しも誰にでも批判ができるし

その環境では、より
その反動としての
依存やカルト化に脆弱になる
ようにも思われます。
(これは単なる私の仮定で、
想像なので、信じないでください)

まあ、根本的には
確かに皆、対等であり
それはそれとして
普遍なのだと思いますし

少なくとも現代において
実際、その厳しさを
信頼するに値するだけの人は
絶対数として少ない
という気はします。

私自身、ご本人は
厳しさとお思いのようだけど
仮にただの気分屋でないにしても
教育方法として、ひどく
効率が悪く、ただ
生徒の自尊心を傷つけ
心を弱らせるだけのことをしているな…
と思われる場面を
見たこともあります。

「厳しい」教育を受けたからこそ
他人にも「厳しさ」を求める場合もあれば
反動で、そういった全てを
否定するような場合もある。

そうした状況などを見ながら
厳しさとは何なのか、を
かつて考え続けていました。

考え続けると、
なんというか飽和してしまって
特に考えることが無くなる

ということが、たまにあるのですが

これもそんな具合で、
今日はとても久しぶりに
思い返して書いています。

私の場合は、師弟関係にあり
バウルのうたを歌っているうちに
何というか、納得して
腑に落ちてしまったところが
あるんですよね。

バウルは、あと多分、
ほとんどのインドの伝統は、
グル・ヨーガなしには
成り立ちえません。

やはり厳しさとは
いわゆる、本当の「愛」というものが無いと
そもそも成立しないもので

その「本当の愛」が中々分からない
迷走する時代においては
「厳しさ」が成立しにくくて、
当たり前なのでしょう。

また、たとえば
「所詮は人間のやること」
という言葉があって、
それ自体はおそらく
ただの事実で、真理でもある
のかと思いますが、

その、人間を
必要以上に低く見積もる心性に
今の私は同調できません。

少し前なら、
同調していたと思いますが

今は、同調するには、
普通に凄い人を見すぎました。

こうした認識も、
厳しさのあり方には
関わってくるように
思われます。

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