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「無条件の愛」と訳される概念について

「無条件の愛」や「無償の愛」
と訳される概念があって、
英語だとunconditional love,
私も「大いなる魂のうた」では
主に「無条件の愛」と訳しました。
(もしかしたら、一部
「無償の愛」としたかもしれません……
どうだったかな)

しかし、そもそも(この出だし、
使うこと多いですね、すみません)

「愛」って何だろう、

とは、私自身が
かなり長い間にわたって
疑問に思ってきた事でした。

だいたい私は、
よく言われる「感謝」
という概念すら、
よく分からないと思ってきました。

おかげさまとか、感謝だとか
当たり前に美徳とされる心が
実感として、
よく分からないわ……と。

それが多分ほんの3、4年前とか
ぐらいのことで、
実は今は、その実感なしに
私は存在しえない
というぐらいに
変化しているんですよね。
不思議なもので。

バウルの文脈で言えば、
「無条件の愛」と訳されるのは
「プレーマ」です。
「神的な愛」とも訳されます。

欲のある愛は「カーマ」。
カーマスートラのカーマです。

惹きつけられる気持ち、
捧げる愛、などで
「アヌラーガ」も
使われます。

よく古典ギリシア語の
アガペーとエロースが
神的な愛と肉欲の愛として
おそらくキリスト教の文脈で
対比されますが

プレーマとカーマも、
似たような対比になると思います。
とはいえ、私は
ギリシア語の方は分からないので、
あくまで
バウルの文脈での話をします。

日本語では、
愛と恋という言葉があって、
どこからが愛だとか恋だとか
そういった話が多い
ように思います。
いつ恋が愛に変わるのか、とか。

でも、そんな風に
話の種にはしていても、
結局のところ、「愛」が
どんな実感であるのかは
あまり語られることが
無いように思います。
(無いわけではありませんが、
まあ、恋に比べると)

まあ、根本的に
語られることを拒む
概念ではあるのかもしれません。
ただ大仰である
というだけではなくて。

バウルの文脈でいうプレーマは、
究極の境地のひとつです。

人間として存在する限り、
全く打算のない人間関係は
難しいでしょう。

クリシュナ神の数多くの愛人の中
なぜラーダーが重要視されるのかといえば、
「見返りを求めない愛」
「プレーマへの狂い」を
体現した存在だと目されるからです。

三つの世界の全てをもってしても
返すことはできない、と
言わしめるほどの愛。

しかし、日本語で
「愛」を語りだすと、
やはりどうにも大仰だったり、
またそれゆえにか
妄想っぽさが否めません。

私は、もっと日常的な実感に
落とし込むとしたら
愛というよりも

「気にかける」とか
「おかげさま」の
下心や忖度のないバージョン

に近いのではないかな、
と思うところがあります。

たとえば「無私の愛」と聞いて
胡散臭く感じる方は多いようですが
私自身は、それは
本当にあるのだろうと思っています。

ただ、ではその「無私の愛」が
24時間365日そのままである
ものかというと、
そんな事は無いだろうとも思います。

ただ、そうした瞬間は
たぶん確かにあって、
そしてそうでない時も、
それが無くなる訳ではないのだろうと。

時に意識が強く出ると、
執着や「私」の妄想の方が
強く出る事もあるでしょう。

なんというか、日本語の
愛という言葉には、
そういう事を助長しやすい
大仰さが付随してしまっている
ところがあるような気がします。

そういう意味で、
「気にかける」とか
「おかげさま」ぐらいの
さりげなさの方が
想像するにはいいのかな、と。
(ただし下心や忖度のない純粋バージョン)

これは、私が修行の中で
バウルの人々と触れ合う中で
少し、垣間見えたところから
「おそらく」で
語ることです。

だから信じすぎないでくださいね。

自も他もない境地、に
至ったとしても
全く「私」が消えてしまったなら
たぶんその人は存在を
し続けられないだろう
と思います。

実際には、行き来を
続けるのでしょう。
彼我の両岸を。

インドの古典舞踊や
古典詩などで、
恋愛の嘆きや苦しみが
これでもかと語られて、

それを「神への信仰を
なぞらえている」
と読むのは、恣意的、
と感じる方も多いのかと
思いますが

それを「生きている」人間の
実感としては、やはり
その先にプレーマがある
そのための嘆きであり、苦しみなのです。

その嘆きを生ききることで初めて、
その先に行ける。

どんな俗の中にも聖がある
という立場に立てば、
それこそ恋から愛に移る
事もあるでしょうし
逆に恋が無くても
ただ愛だけがある事もあるでしょう。

と書くと何だか難しいですね。
だからうたがあるのですが。

ギャーナ(ジュナーナ)ヨーガ、
と呼ばれる「智慧のヨーガ」
という道があって、
そこでは論理や思索の瞑想から
三昧(悟り)に至ると言われていますが

バウルは
ギャーナ(智慧)ヨーガの要素もありつつ
主にはバクティ(献身)ヨーガなので
結局、「修行なしには分からない」……
というところに
私はどうしても落ち着きがちです。

冒頭にも書いたように
私は元々、感謝という概念が
ピンと来なかったのですが

いつの間にか、
あ、本当に自然にあるものなんだ、
という風になり、
今では私のごく基本的な状態
になっています。

「無条件の愛」と訳されるものも
多分、本来それぐらいに
さりげないものなのでしょう。

私、私、と歌っている
私自身と底の底まで
向き合わなければ
わかるようには現れ出ない、
というだけで。

バウルで言う
「心の人—モネル・マヌシュ」
「黄金の人—ショナル・マヌシュ」
(他にも色々呼び方はありますが)
は、そういう存在です。

この形象の海の底に潜り、
探し続けても、
それでも容易には見つからない
「その人」は
「プレーマの人—プレーメール・マヌシュ」
とも呼ばれます。

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