🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

アンベードカルとガンディー 〜カースト差別と闘った双竜

ガンディー(ガーンディー)の事は、
歴史の授業で学んで
ご存知の方も多いと思います。

インド独立の立役者。
イギリスの塩の交易支配に反対して
海まで386kmを徒歩でひと月近く歩き続けた「塩の行進」、
輸入布の押し付けに抗議しての
「チャルカ」糸紡ぎの運動

インドのお札は
ガンディーの顔写真です。

しかしインドにいると、不思議と
周囲で、彼を称賛する人は
あまり聞かないのでした。

近年、インドの自由を求める運動で
象徴的な存在となっているのは
現代インド仏教の創始者、
アンベードカルです。

アンベードカルとガンディーは
政敵として対決した事で
知られています。

彼らの関係を通して、
当時のインドの社会的状況を
垣間見てみます。

バックグラウンドの違い

ガンディー

ガンディーは、グジャラートの出身で
いわゆるカースト制度でいうところの
ヴァイシャ=商人階級の生まれです。

画像ソース:ウィキ

イギリスのロンドンで司法を学び
その後南アフリカに渡り
21年に渡り弁護士として
また政治運動家として活動します。
この時に最初の「非暴力抵抗運動」を主導します。

45歳の時にインドに帰国してからというもの、
差別撤廃、重税廃止、やがて独立運動を展開していきます。

貧困の軽減や女性の権利拡大に取り組み、
またアンタッチャブル(不可触民)を
「ハリジャン(神の子)」と呼び

自らは手織り布のふんどしに
ドーティ(腰巻き)とショールという装いを選び
菜食主義を守る
清貧の行者的な暮らしに移行しました。

彼の思想は出身のグジャラートや家族のヒンドゥー教
周囲にあったジャイナ教だけでなく、
トルストイを初めとする西洋思想家、
更にあらゆる宗教に関する本を読み
影響を受けたと言われていますが、
彼自身はヒンドゥー教徒として生きました。

アンベードカル

一方アンベードカルは、
アンタッチャブル=不可触民
日本で言う「穢多非人」とされる
人々の出身でした。

画像ソース:ウィキ

ガンディーよりも22歳、年下です。

代々東インド会社の軍で働いていた
家系に生まれ、
学校に行く事は出来たものの
教室の中に座る事も許されないという
差別的な扱いを当然とする環境でした。

並外れた頭脳を示して
ボンベイ(ムンバイ)大学を卒業、
のちにはアメリカのコロンビア大学でM.A
更にイギリスのロンドン大学で博士号を取り、
初期は司法・経済・社会学者として名を馳せますが、
学者として働く間も
カーストによる差別を受けます

やがて弁護士として活動するようになり、
低カースト告訴人を弁護し
高カースト被告人に対し勝訴するなどします。

そして積極的に、不可触民への
差別撤廃運動を開始します。
当時、不可触民は公共の水を飲む事も、
ヒンドゥー寺院に入る事も許されていませんでした。
差別を正当化する教典であるとして
マヌ法典を一斉に焼き上げる運動などを展開します。

二人の関わり

二人の出会いがいつ、どのようなものだったかは
ネット上の浅い調査では分かりませんでしたが
大きく関わるようになったのは、
第2回英印円卓会議の際のようです。

アンベードカルは、
不可触民のみが選挙権・被選挙権を持つ
特別議席を設けるべきだと主張
イギリスは第2回英印円卓会議で
その主張を認めようとしていました。

アンベードカルの要求は、今日の言葉でいえば、アファーマティヴ・アクションにつながるものである。すなわち、差別されてきた人々と、有利な状況に置かれてきた人々が、平等の条件で政治的、経済的に競争するといつまでたっても差別はなくならないから、被差別階層の人々に有利な措置を講じよう、というのである。とくに、これからつくられる議会では、不可触民だけが選挙権、被選挙権とも持てるような特別枠を設けよう、という。そうでなければ、不可触民が撰ばれて議員になることはありえない。それが彼の‘分離選挙’の主張であった。

<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.177>出典
太字強調は筆者による

イギリスが、いわゆる「分割統治」で
宗教間・コミュニティ間の分断を図りながら
植民地を宗主国に有利に統治しようとした、
という話は有名と言ってよいと思います。

今も世界に残る紛争の一部は、
イスラエルとパレスチナの例を含め
(具体的な話は個々にもちろん違いますが)
このイギリスの植民地政策の
影響が尾を引いている地域が少なくありません。

この時、分離選挙で認められようとしていた特別枠は
不可触民のみならず、
イスラーム、ヨーロッパ人、シーク教徒、
アングロ・インディアン、インド系キリスト教徒
などがありました。

ガンディーは、そうした分断の動きを
非常に警戒していました。

1931年8月6日、第2回英印円卓会議に出発するまえガンディー(62歳)はアンベードカル(40歳)に会った。そのときアンベードカルは「犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるでしょう、自尊心のある不可触民なら、誰一人としてこの国を誇りに思うものはありません。」と述べた。その言葉はガンディーを激しく撃った。不安を抱きはじめたガンディーに、アンベードカルは分離選挙の提案を語った。それに対してガンディーは「それは明らかに自殺行為です。」と答えた。

<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.179-180>出典
太字強調は筆者による

衝突、プネー協定

ガンディーはこの分離選挙に
断固として反対
この案が撤回されない限りは
プネーの獄中で死に至るまでの断食
宣言し、決行します。

当時既にガンディーの求心力は
大変なものであり
アンベードカルが妥協すべしという
社会的圧力は日に日に増しました。

ガンディーが衰弱し重体に陥ると、
ついにアンベードカルは
分離選挙の要求を撤回します。

プネー監獄で、
不可触民の代表者としてアンベードカルが、
そして高カーストの代表者として
マダン・モーハン・マールヴィーヤが
協定にサインし
ガンディーは断食を止めました。

この事で、現代ではガンディーが
アンベードカルを「脅した」ものであり
不可触民への裏切りであった
という見方が、
どちらかといえば支持を得ているように見えます。

一方で、結果としてプネー協定では
当初アンベードカルが要求していたよりも
いわゆる不可触民の
議席は大幅に増えていました。
当初の案では71議席だったものが、
148議席、倍以上になっていました。

二段階選挙で、まずは
選挙区ごとに不可触民自身が4名を選出、
その中から全体選挙で一名を選出、というシステムです。

のちにガンディーとの政治的対立が
より鮮明になった時も、
更にインド独立後、
憲法起草の段階になっても
アンベードカルはこのプネー協定は覆さず
守り通しました。

また、ガンディー率いる国民会議派との
政治的対立があって尚
アンベードカルが最初の法務大臣となり
憲法の起草者となったのは
ガンディーの意向あっての事だと言われています。

のちにアンベードカルは
カースト差別からの解放を求め
仏教に改宗
現代インド仏教の創始者となり
(創始者という言い方が正確でなければ申し訳ありません)
50万人にも及ぶ一斉改宗を主導します。

余談ですが、この時共に仏教に改宗した
再婚の奥様は(最初の奥様は闘病の末先立つ)
開明的なバラモン一家の出身の医者でした。

二人の関係性

随分と駆け足で、それも
非常に単純化した話として
ガンディーとアンベードカルについて
見てきました。

敢えて尊称を付けずに語っていますが
私はお二人を真剣に研究した事が無い、
にわかの素人です。

色々読んでみて、結局
プネー協定が誰によってまとめられたものなのかすら
割り出す事ができませんでした。

この二人について、特にガンディーについて
どのような判断も、私にはできません。
正直、調べれば調べるほど混乱してきます。

それでも、知らずにいるべきではない
インドの現代に繋がる重要な歴史として
一つの入り口になる事を願って書きました。

ご関心ある方は、ぜひご自分で
書籍などに当たっていただければと思います。

作家にして社会運動家の
デーヴァヌール・マハーデーヴァは
二人についてこのように語っています。

アンベードカルは眠れるダリット(不可触民)達を目覚めさせ、それから歩みを始めなければならなかった。ガンディーはヒンドゥー教という、カーストを内包する宗教の溝に嵌まり込んでしまった人々を、引き上げ、正し、そして前に踏み出させるという非常な努力をしなければならなかった。このように見た時、アンベードカルの存在なしに、ガンディーはこれほどの成果をおさめる事はできなかったかもしれない。
同じように、ガンディーが作り出したヒンドゥー教における自由主義的・寛容な空気がなければ、アンベードカルがこの冷酷なカースト社会であれほど許容される事は無かったかとも思われる。

ーーー

もし我々が、インドがカーストから解放されるために変化しなければならないのはカースト(の範疇に入る)側の人間だと理解するならば、ガンディーの存在は欠かせない。ダリット(不可触民)の市民権獲得のための闘争において、アンベードカルは絶対的に必要だった。だから私は、この二人は相反する存在ではなかったと主張したい

ーーー

ガンディーは不可触性を罪だと呼び、アンベードカルは犯罪だと呼んだ。ならばなぜ、我々は彼らを対立者同士として見ているのだろうか。両者が必要不可欠だったのだと理解する方がよほど賢明ではないか。

(パロミタ訳・出典
太字強調は訳者による)

この文章を踏まえて、
この記事のタイトルは
敢えて、「双竜」と
物議を醸しそうなタイトル
設定しました
(後で変える可能性はゼロではありません)。

参照:(Retrieved 20th April 2020)
https://thewire.in/history/ambedkar-gandhi-hindutva-anti-caa-protests/amp/
https://www.nationalheraldindia.com/amp/story/opinion%2Fwhen-gandhi-and-ambedkar-came-together-to-settle-the-dalit-question
https://theprint.in/pageturner/excerpt/how-gandhi-made-ambedkar-a-villain-in-his-fight-to-be-the-real-representative-of-dalits/237642/?amp
https://www.y-history.net/appendix/wh1601-133_1.html
https://www.mkgandhi.org/Selected%20Letters/amb-gandhi%20corr..htm
https://www.news18.com/amp/news/opinion/why-ambedkar-has-replaced-gandhi-as-the-new-icon-of-resistance-and-social-awakening-2437333.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Mahatma_Gandhi
https://en.wikipedia.org/wiki/B._R._Ambedkar

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