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クイーン・ハリシュ〜男性であり女性、その神秘は永遠に

 

2019年6月2日の朝、事故で亡くなられた
ラジャスタン・ダンスのクイーン・ハリシュ。
彼の事故前日のインタビューを掲載した記事を、
インタビューを中心に(他の部分は一部省略して)邦訳します。

ラージャスターンは、インド北西部にある、
砂漠に覆われた中に色とりどりの文化が咲き誇る州です。

クイーン・ハリシュは何度も来日されていて、
ラジャスタン・ダンスやベリーダンスの踊り手を中心に、
日本にも多くの生徒さんがいらっしゃいます。

私自身はお会いした事はありませんが、
生徒さん方のお話を伺って、本当に愛に溢れた、素晴らしいアーティストだったのだと、
お目にかかれなかった事を非常に残念に思います。

ご冥福をお祈りします。

2019年6月10日、サンディープ・ソーパルカルによる記事の邦訳
元記事:[https://www.asianage.com/amp/life/more-features/100619/queen-harish-the-man-the-woman-the-mystery-will-stay-the-same-forever.html]

今日、とても重い気持ちでこの記事を書いている。この記事はクイーン・ハリシュへのトリビュートである。ほんの数日前にこの世を去って、より美しい道へと進んでしまった、素晴らしい天才フォルク・アーティストへのトリビュートだ。誰もが想像していたよりもずっと早い旅立ちで、世界中のダンサーやアーティスト達はまだ衝撃から立ち直れていない。しかしながら神は気に入った者を他の者よりも早く御許に呼び戻すとも言われている。

(中略…事故の詳細など)

クイーン・ハリシュはラジャスタン民族舞踊、特にアクロバティックな動きや腰の動きで知られていた。彼の妻と6歳と10歳の二人の息子が遺されている。クイーン・ハリシュは13歳でダンサーになってからというもの、世界中で踊って来た。彼はそれまでの誰とも違い、唯一無二の存在だった——キラキラと光を反射するラジャスタンの民族衣装と、入念に施された化粧が、彼のよく知られたスタイルだ。

ジャイサルメールに生まれたハリシュ・クマールはクイーン・ハリシュとして知られていた。彼のダンス・ショーはGhoomar, Kalbelia, Chang, BhawaiやChariといった様々な民族舞踊で構成されていて、非常に人気があった。彼はその踊りの技量で世界に知られ、インド、特にジャイサルメールに新たなアイデンティティをもたらした稀有なアーティストだった。

あの事故のほんの前日にクイーン・ハリシュと心を交わし語り合えた事を本当にありがたく思う。インタビューで彼は苦難に溢れながらも美しい人生の道のりを、そして今後の展望を語ってくれた。そして世界中の彼の友人たちが今回、彼の写真を提供してくれた。カトリーナ・ジー、デイヴィー・ミッチェル、アーノー・アゾーには特に感謝申し上げる。
クイーン・ハリシュが笑顔と、そして涙と共に私に語ってくれた全てを皆さまにシェアしたい。彼の最期のインタビューである。

——いつ頃から踊りを始められたんですか。
踊りという素晴らしい世界に足を踏み入れたのはまだ十代の時。13歳の時でした。といっても好きで始めた事ではなくて、両親が数ヶ月の内に続けて亡くなってしまったから。母が癌で亡くなり、半年後には父も亡くなりました。家族の中で食い扶持を稼げるのは私だけだったんです。(微笑みながら)——でも後悔は何もありません。

——もう少し教えて下さい。
私の出身はジャイサルメール、カラフルで明るい砂漠の都市です。ラージャスターン州にあるこの都市には豊かな伝統文化があり、カラフルな外観とも相まって多くの観光客が訪れます。その目玉が民芸品や民族舞踊です。大抵のレストランやホテルで観光客向けの民族音楽や舞踊のショーが行われています。友人の一人が、私も夜にそれをやればいいと言ったんです。家族のために、そして私自身が学校に通い続けるためにはそれが唯一のお金を稼げる手段でした。12時から5時まで学校に通った後、夜遅くまで踊ったものです。

——なぜラジャスタン民族舞踊を専門にしようと思ったのですか。
(微笑みながら)私が選んだんじゃないんです——民族舞踊が私を選んだんです。踊りは知っていたけど、民族舞踊はやった事がありませんでした。——民族舞踊を習う事は容易ではありませんでしたが、踊りは大好きでしたから、挑戦できる事が嬉しかった。観客のほとんどはヨーロッパや他の外国人です。教養ある家の人たちは踊りを仕事にしたいとは思いませんでした——見世物として踊るのは、少数民族やジプシーたちだけだったんです。

——なぜ女性装をして踊りをすることに?
それが人々の観たいものだったから。完璧に飾り立てられた女性がステージに立つ事はショーの必須条件で、同じ舞台に立つ音楽家たちもそれを求めました。ツーリスト・ファッションとも呼ばれていました。初めて女性の衣装を着た時の事は一生忘れられません。ああ、お化粧の匂い、口紅…感動しました。世界で一番の美人になった気がしました。(笑いながら)ラジャスタンの花嫁衣装はとても重くてキラキラギラギラと光を反射して、私自身が花嫁になった気分でした。足につけた鈴グングルーは最初とても重くて踊りにくかったです——観衆が拍手する中、私の両脚はひどい痛みで震えていました。

——それから大変だったでしょう。
はい。本当に大変でした。男性が女性の格好をして踊るというのは多くの人に滑稽に映りました。色々な映画での取り上げられ方も悪い影響にしかなりませんでした。特に私は小さな街に住んでいますから、それも要因の一つだったでしょう。ニューヨークやロンドン、あるいはムンバイやデリーのような大都市だったらもう少しやりやすかったのではないかと思います。私は中流家庭の出身で、親戚の誰にも踊り子はいませんでした。だから私がダンサーになった事はものすごい衝撃で、しかももっと悪いことに、私は夜な夜な観光客相手に踊っていた——それは「恥」だと、誰しもが私を蔑みました。

私はまじめな学生でした。成績も良かったです。でもそれだけでは私も私の家族も食べては、暮らしてはいけなかった。特に冬の寒さの厳しい時期には。私の大変な時には誰も、本当に誰も助けてくれませんでした。(微笑みながら)本当に傷ついたし、辛かった。それで自分でお金を稼ぐことにしたんです。妹たちによい暮らしをさせて、自分も学校を続けるために。でもよく笑われて、私への悪口や嘲笑が聴こえてきましたから、あまり学校には行きたくなかった。私の救いになったのは、音楽と踊り、そしてアーティストたちのコミュニティでした。中流・上流階級の人たちには馴染めませんでした——私の居場所は貧しい人々、底辺と呼ばれる人々と共にありました。

——どんないじめに遭いましたか。そして踊りがただの仕事以上のものになったのはいつ頃でしたか。
毎日悪口や嘲笑を浴びせられました。はじめは陰口だったんです。でもすぐに面と向かって言われるようになりました。暴言、無礼、嘲笑はもはや生活の一部でした——ほとんどお祈りみたい(泣き笑い)。ヒジュラ、ミータ、チャッカ、グド——こういった侮蔑の言葉を投げかけられるのは普通の事でした。これらの言葉は一日中耳にこびりついて、夜になると音楽と踊りが安らぎをくれた。そんな時に、踊りが私の情熱であり人生になり、もはや踊りなしに生きていく事なんてできないと分かったんです。

——踊りで話題になるのに時間はかからなかった?
2年もする頃には、引っ張りだこになっていました。大都市にも呼ばれて行きました。でも初めてのインターナショナル・ツアーの話をいただいた時には、お断りしなければいけませんでした。そんなに長く妹たちを家に置き去りにはできなかったからです——家に長い期間女の子たちだけでいる事は安全ではありませんでした。でもアーティストの友人の多くは、半年にも渡る国際ツアーをするチャンスは誰にでもあるものじゃない、行くべきだ、と言いました。でも、何とありがたいことに、日程が延期になって、また私に話が来たんです。その時には叔母たちに妹たちの世話を頼む事ができて、ヨーロッパ・ツアーに出かける事ができました。——それからは、一度も振り返ることはありませんでした。

(笑いながら) Aache din aaye (良い日々がやってきた)。ツアーから帰って来た時には、人々の視線が変わっていました。このヒジュラ、ミータ、チャッカに対して、今や尊敬や憧れの目が向けられていたんです(笑い)。新聞やニュースに取り上げられたおかげで、私はラージャスターンじゅうで知られるようになり、私や私の踊りに対する人々の考えも変わって来ました。

——今では世界中からあなたに習いに生徒がやって来ますね。
本当にありがたいことです。世界中様々なところから私に踊りを習いに来てくださる方がいて、本当にありがたいことです。私も多くの国々でワークショップをしながら、インド民族舞踊を広めるために出来る限りの事をしています。いつも生徒たちにはインド、ラージャスターン、ジャイサルメールに来てこの豊かな伝統文化を体験して下さいとお願いします。これは私が私の故郷に、そして伝統に対してできるせめてもの事です。

——映画、テレビから結婚式まで、多くの場所で踊って来られましたが、特に印象的なショーはどれでしたか?
(しばし考えて微笑む)一番印象的だったのは、パリのサッカーワールドカップで踊った事です。そして最悪な時でもありました、なぜなら踊っている最中に膝を痛めて、その後ツアーを続けながらずっと痛みに苦しんだから。

——今後のクイーン・ハリシュについて教えて下さい。
皆さんにはこれからもずっとクイーン・ハリシュの応援をお願いしたいと思います。Bigg Bossの次のシーズンに出演して、ここインドでの素晴らしい人々との生活を知ってほしいし、いつか私の人生についての映画ができたらいいなと本気で願っています。


 

その日別れる前に、クイーン・ハリシュは「サンディープさん、この上に座っていらっしゃる神さまは、私たち一人ひとりをずっと見守って下さっているんです。清らかで良い願いを持っていれば、神さまはきっと助けて下さると思って生きてきましたが、それはいつも証明されました。実は、踊っている時に神さまが私に話しかけてくれたのを聞いた事も何度かあるんです——それは特別で神聖な体験でした」

クイーン・ハリシュはきっと今日も踊っていて、神々を魅了していることだろう。もうこの素晴らしい天才アーティストをBigg Bossで観る事は叶わないが、いつか彼の波乱万丈な人生を描いた映画が作られる事を願う。クイーン・ハリシュが安らかに、そして彼の創造的な魂が踊り続けていられますように。

訳責:パロミタ

 

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