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女性初のオリッシーダンサー〜オリッシー今昔

インド石窟寺院の彫像のような、美しい動きをする事で有名なインド舞踊、オリッシー。
女性の踊りとして有名ですが、現在の「オリッシー」という形式を作り出したのは、男性の踊り手達でした。
というのも、オリッシーの元になったのはゴティプアという、
女装の少年達による寺院での奉納舞踊。

ここでは、女性として初めてオリッシー・ダンスを踊ったと言われているラクシュミプリヤのインタビューを邦訳しています。

オリッシー・ダンサーの先駆者、ラクシュミプリヤ・モハパトラが、オリッシーがインドを代表する古典舞踊の一つに成長するまでの逸話をニタ・ヴィディヤールティに語る。

オリッシーは今やインドを代表する古典舞踊の一つである。その成長の立役者として挙げられる「トリニティ」はグル・パンカジ・チャラン・ダス、グル・ケルチャラン・モハパトラ・ダス、そしてグル・デバプラサッド・ダスの3人である。しかしもう一人、この歴史を形作るのに貢献した人がいる。折れる事ない決意、プロフェッショナルの矜持、そして芸術的センスを以ってオリッシーの発展に尽力したのは「グル・マー」ラクシュミプリヤ・モハパトラ。1947年に女性として初めてゴティプアを舞台で演じた人である。

オディッシャ州クルダの村に生まれたラクシュミプリヤは、自然に溢れた環境でオディッシャの芸術のエッセンスを身につけた。バウリバンドゥ・マハンティ主宰のアンナプールナ・シアターのカッタックにあるグループAに踊り手として加わり、そこで後に夫となるグル・ケルチャラン・モハパトラと出会った。ケル・バブ(地元オディッシャ州では彼はこう呼ばれている*訳者注)は同じシアターのグループBに所属するタブラ奏者で、マルダラや他のドラムも演奏して踊り手をサポートした。

彼らのお互いへの芸術的なサポートはやがて結婚に結実し、そして二人の生涯はオリッシー・ダンスに捧げられる事になった。ラクシュミプリヤはオリッシーを舞台で踊った最初のダンサーだと言われている。その普及への貢献だけでなく、彼女が結婚・出産を経ても舞踊と演劇を続けた事は、オディッシャの多くの少女達がオリッシーを学び継続していく光となった。ラクシュミプリヤの鋭い感性と観察眼は、ケル・バブの生徒達の一進一退を稽古場だけでなく舞台上でも見つめ続けた。

その鋭い美的センスで以って、生徒達にぴったりの衣装、適確な色、ジュエリーを選び、必要であれば彼女達のために生花を買いに走った。またラクシュミプリヤはオディッシャ映画の往年の名作「スーリャムキ」「マニカ・ジョディ」「アマダ・バタ」等でも主役を務めた。

1985年に舞台から退いても、オリッシーそしてケル・バブの生徒達にとって「グル・マー」として重要な存在であり続けている。ブバネーシュワルにある自宅、ヌルティヤバーサで椅子に座るラクシュミプリヤは現在83歳。しかし今も名ダンサーの貫禄に溢れ、その手が舞踊の動作(ムドラー)を見せる時など年齢を感じさせない。

このインタビューでは、彼女は人生を振り返り当時の事を語ってくれた。

ラクシュミプリヤの映像は見つからなかったので、グル・ケルチャラン・モハパトラの映像。

どのようにオリッシーを踊るようになったのですか。

ある日、アンナプールナ・シアターにゴティプア(寺院で奉納舞踊をしていた女装の少年達の芸能。オリッシーの元になった。*訳者注)のグループが来たんです。劇場オーナーのリンガラージ・ナンダは少年達が女装して踊っているのを見て、「少年達が女装して踊るなら、アンナプールナ・シアターの娘達が同じものを踊ったっていいじゃないか」と言い出したの。それでバナプールという場所から先生を呼んで来て、私もその時教わった女の子の一人でした。グルジ(グル・ケルチャラン・モハパトラの事。以下、「先生」と訳す)はタブラ奏者として雇われていましたが、既に踊り方を知っていました。ゴティプアは細かいところが結構雑なの。だからゴティプアの踊り手が私達に教えている時、先生はそういう細かいところを洗練させようとして、手の動きを直そうとしていました。

シアターの音楽監督だったマドゥ・パライがそれで、ケルチャラン・モハパトラも実はダンサーだった事を知ったんです。
それからというもの、先生も踊りの稽古に加わるようになったの。

ダシャーワタール(ヴィシュヌ神の十の化身)の踊りはその年に振付されて、私が最初に舞台で踊ったゴティプアの作品になりました。その時点では、「Sadhaba Jhieo」という演劇作品の一部でした(1947年10月1日)。Sadhaba Puo (オディッシャからバリ、スマトラそしてジャワに行った商人たち)がバリに旅して、様々な国の商人と会って取引するという内容でした。

初日は皆がそれぞれ、自分達の踊りを踊って見せなければいけない、という筋書きで、その時にダシャーワタールも演じられたのです。

一部はパンカジ・チャラン・ダスの振り付けで、音楽はマドゥ・パライ、タブラのボルはドゥルラブ・チャンドラ・シンが作りました。

パンカジ・チャラン・ダス(オリッシーの父と呼ばれる*訳者注)が全てのアワタール(化身)の踊りを稽古したのですか?

稽古してくれたのはドゥルラブさんでした。でも先生も「こういう手の動きをすればゴティプアとは違ってもっと綺麗に見える」など提案をして、パンカジさんも受け入れました。
共同制作ということね。

それからどんな事が起こりましたか?

ある日、アンナプールナ・シアターにミナティ・ミシュラのお母さまが見えて、私の舞台を観て娘に習わせたいとおっしゃったんです。
それで先生が教えるようになって、その頃私たちは結婚して、アンナプールナ・シアターから独立して興業するようになりました。それから先生はカッタックにあるカラー・ビカース・ケーンドラに加わりました。

ソロも踊られたんですか?

いいえ、それからは私は先生とのデュエットで踊るようになりました。ダシャーワタールも踊ったし、モーヒニーも踊ったし…色んな役を演じたわ。ずいぶん昔の事で、今はどれだけ覚えていることやら。

他の人に踊りを習った事は?

いいえ、先生にしか教わっていません。

マハリ・ダンス(寺院巫女によって踊られていた舞踊*訳者注)を観た事は?

もちろんありますよ。「ドゥングリ・マハリ」を観ました。どんな風に踊るかご存知? ドゥングリ・マハリはチャーパ(船上)で踊るんですよ。

彼らは神を見て、歌い、少しだけ手を動かし、座り、お喋りして、それから横にもなります。ステップと呼べるようなものはほとんどありません。有名なジャガンナート寺院のマハリは、本殿の中で神に向かい歌い踊ったと言いますが、誰も本殿の中の彼女達を見ることは許されていませんでしたから、どんな風にしていたかは誰も知らないんです。

ドゥングリ・マハリはそれとは違います。
ドゥングリ・マハリはジャトラ(山車の行進祭)の時にマダン・モハンと船に同乗するんです。マダン・モハンはラーダーとクリシュナで、ジャガンナートではなくてマダン・モハンがお寺から出ていらした時に、ナレンドラ・プクリ湖を船で一周するんです。
その時に、船上でゴティプアは踊りマハリは歌っていました。

マハリ・ダンスというのは、はっきりした形式のある舞踊ではないんです。私たちも話す時、身振り手振りをするでしょう。マハリも同じようにしていたんです。歌っている時、心の赴くままに手足をいくらか動かした、そういうものだったの。

でもオリッシーはマハリ・ダンスに影響を受けているんですよね?

今、現代にマハリ・ダンスと呼ばれているものは要するにオリッシーです。マハリであんな風に強いアビナヤやムドラーを使って踊る人はいませんでした。

マハリがオリッシーの先祖とは言えませんよ。ゴティプアの影響はもちろん非常に大きいですけど。

オリッシーは今、ゴティプアとマハリが融合したものだと言われていますけど、マハリの影響と言えるものはほとんどありません。

訳責:パロミタ

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