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詩とはうたうもの

詩とはうたうもの

きっと多くの原初の社会がそうであったように、
インドにおいても、詩といえば歌うもの、でした。
インドでは特に、近世までその伝統が一般的に受け入れられていて、
読む文学としての紙の上の詩が導入されたのは、
西洋文学の紹介によってです。

しかし今もって、「紙の上で読まれる詩」は
比較的弱い文化であると言えるでしょう。
口に出されてこその詩なのです。

有名な叙事詩ラーマーヤナやマハーバーラタも、
あるいは聖典ヴェーダも、口承伝統によって伝えられて来ました。
音節の組み合わせ(メーター)により異なる旋律や節回しがあり、
地域によって様々な形態はあれ、世代を超えて詠唱されて来たのです。

ケーララの「歌われる詩」

近現代の詩について、私が縁のあったケーララを例に
語ってみます。
ケーララにおいても、近年その勢いは弱まったとは言われているけれども、
歌う詩の伝統は今も続いています。

サンスクリット詩の旋律、ドラヴィダ詩の旋律、というように古くからの旋律があり、
大抵の詩は何らかのメーター(決まった長短の音節の組み合わせ)
にのせて書かれているので、
少し前までは、割と誰でも歌う事ができたそうです。

そればかりでなく、歌手がそんな詩を歌ったCDがあったり、
更には、詩人本人が歌った音源も多いのです。
これら近代の詩は、社会の変革期に大きな役割を果たしたと言われています。
60年代から80年代にかけて活躍した詩人たちは、
映画音楽の歌詞も多く手がけました。
当時はまだ、詩と詞の境がよほど曖昧だったのでしょう。

それでは歌と詩の違いは何かと訊けば、
まずは長さだと返って来ます。
詩は長い。物語詩と呼ぶべきものの方が多いかもしれません。
何十分とかかるものもざらにあります。
また、定型に則っている場合が多いのですが、新しい詩はそうとも限らないようです。

「この詩がヒットした」などという言葉は、ケーララでなければ
中々出てこないかもしれません。
今は詩の黄金期は終わってしまったということですが、
今でもたとえば映画を評する際に、歌、そしてその歌詞はとても重要な要素です。

ケーララ映画の場合は、派手なダンスシーンというものはあまり無く、
むしろ歌のシーンの文学性が重視されてきた面があります。
これは、詩の伝統が形を変えて受け継がれているようにも思えます。
……もっともそうは言っても、
近年は曲が先にあって詞を付けることが一般的であり、
詩という側面が萎んで来ていることもまた、確かなのでしょう。

また、これはあくまで私の個人的に思うところなのですが、
こうした詩を歌うというモードから、
ラーガのような考え方が発生してきたのではないかとも思われます。

有名なクリシュナ神とラーダーの恋愛詩、
12世紀の「ギータ・ゴーヴィンダ」には、
各章ラーガ名が指定してあるます。
当時のラーガがどのようであったのかは、今では誰も知り得ません。
ただ、それでも推測できるのは、
その詩の雰囲気やムードに適切なラーガで歌う、という文化が、
当時既にあった、ということです。

今でこそ古典音楽は「声という楽器」的な要素が強いのですが、
おそらくは元々は、そういった詩を歌う文化と、
その情感をいかに表現し、神に届かせていくかというところから
出発したのではないでしょうか。

ケーララの鬼子母神のうた

イダッシェーリ作、プータッパートゥ。
友人から内容を教えてもらって、鬼子母神のようだと思った詩です。
このバージョンは特に雰囲気満点で好きです。

Poothappaatu(抜粋)

ランプを灯した。日は沈み、眠い目をこすりながら九九を覚え、まだ夕食の時間には早い。おい、寝るな。プータムについての、歌を一つ聴きなさい。

聞こえるだろう
太鼓が打ち鳴らされ、鈴がぶつかり合う
アイヤイヤー、来るぞ
月のかけらをその身にまとった、黒のプータム

  • ・・

こんなに悪いプータムに、ぼくらが米とか衣とか差し出しているのは何故? いやいや、そうしないと良くない。プータムが悪いことをしていたのは、昔のこと。今は誰も殺したりしない。

  • ・・

「この金の宝石をやるから
この愛らしい子どもは私がもらう」
母親は宝石を見もせずに、自分の目をえぐり出した
「これよりも大事なものなのです、私の子どもは」

  • ・・

母親は受け取るや、その額に
溢れる喜びでキスをして
大事に大事に抱きしめた、その時
この子じゃない、と気がついた
腹を痛めた母親を騙すとは
悪いプータムめ、と怒り
タパス(苦行)の熱で、震えるほど恐ろしい
呪いをかける手を振り上げた。
驚き震え、足下に下ったプータム
急いで子どもを返した

(イダッシェーリ)
訳責:パロミタ

「ラーヴァナの娘」

ラーヴァナプトリ(ラーヴァナの娘)という題の、
映画音楽の作詞の大家でもあるワヤラールの詩。
叙事詩ラーマーヤナのヒロインであるシーター姫が
実はラーヴァナの娘で、
鬼が島の鬼にあたるラーヴァナは、実は娘に会いたかっただけなのに……という内容。

Ravanaputhri「ラーヴァナの娘」(抜粋)

戦が終わった—— 首の無い胴体が
狂気の舞を舞った、戦場という舞台

  • ・・

その争いの大地に倒れた
ラーマの矢に貫かれ、衰弱したランカの王
瞳の裏返った目の中、心の奥深くでくすぶる熱
死が少しずつ、頭頂から生気を吸い取っていく
その間にもラーヴァナの胸に走馬灯のように浮かぶのは
美しいミティラーの姫
思い出の中で、鈴鳴るアンクレットをつけ駆け回っている

  • ・・

ヴェーダヴァティ——彼女は
愛の神の矢に刺し貫かれなかった、供えられた花
あの日、抑えられなかった彼の情動は、発情期の象のよう

  • ・・

黒の森の奥深い湖で、蓮の第一子として生まれた人
金の絹を身に纏い、西日を全身に浴びていた
昨日のようにラーヴァナは思い出す、あの歓喜の行い

  • ・・

「私を乙女で無くした、ならず者
私に産まれるおまえの娘を生かしておけば、
おまえは死ぬだろう」

  • ・・

ラーヴァナの目に涙が溢れて来た
あの森の娘に産まれた子なのだ、ミティラーの姫は!

  • ・・

花の飛行機でお前を連れて来た時から、
アショーカの木陰に座らせた時から
どんな災難に見舞われても、心の平安を得るのだ

  • ・・

(ワヤラール)
訳責:パロミタ

ケーララのラーマーヤナ

シュリークマール氏の、「アーディヤートマ・ラーマーヤナ」詠唱。
叙事詩ラーマーヤナのマラヤーラム語版。
7〜8月のシーズンはこれで、ケーララ中で引っ張りだこになるとか。
内容を元に適切なラーガを選び、基本的には即興で歌われているそうです。

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