言葉は聞く人や読む人のもの、
と言われることについて
というのはつまり、
一度作者の手を離れた作品は
それを受け取る人のもの
どのように受け取られても、
それはその受け取る人のもの
……ということで、
それはその通りだと思っています。
けれども同時に、
伝承を経て、過去からの言葉を
受け継ぐ立場からすると、
それだけじゃない、とも思うのです。
少なくとも何人もの手を経て
私のところまで伝えられてきた
バウルのうたを、
ただ「受け取る人次第」とは、
私は言えない。
もちろん、最初の作者の心は
他の人には預かり知らぬことで
あるいは本人すら、
時を経れば別人のようなもの
だったりもします。
それでも、それが歌い継がれ、
語り継がれてきた歴史がある
ということは、自らの生活、
修行、人生を通して
その言葉を理解し、口にし続け、
そして伝えてきた人がいる。
そうして伝えられてきたものを、
ただ「どう受け取ってもいい」
とは、私は言えません。
事実として、そして前提としては
受け取った瞬間から、
それはその人のどこか一部になる。
どんなうたであれ、
時によって、あるいは時につれて、
理解は変わっていく。
バウルのような修行歌は
特にその側面が強く
初めからその重層性を
兼ね備えているところもあります。
(読み方によって理解が変わるように……
そしてそもそも
「分からない人には、分からない」
「でも、分かる人には、分かる」
ようにできている、
それはただ自然に)
作者の手を離れた作品は
読者のもの、受け取る人のもの、
というのは、
作者の謙虚さや、深い「委ねる心」
から来ている、という側面もあるでしょう。
しかし私は、翻訳者を名乗るのは、
私がミディアムとして
間に立つ存在だと思っているからで
そしてだからこそ、あえて
ただ「受け取った人のもの」とは
私は言いません。
現代的な、そして今の日本的でもある、
作者の個人性が強調されながらも
受け取る人のそれぞれに理解する権利が
保証されながら強調される、
というのは
それは健全でありながらも、
どこか、囚われている、
ようにも思われます。
私が強調したいのは、
作者の意図とか、個人性とか、
そういうこととは
また少し違います。
いえ、それも含まれてはくるのですが
そもそも個人とは
切り離された存在ではないわけです。
個人であり、大海の中の波そのものでもある。
そういう前提に立って、
すべてを並び立たせることこそが
本来なのではないか、と
思っています。
でも少なくともそれは、
胸を張って「受け取り手次第」
と言うこととは、違う、
と、あえて言います。
発する側と同じぐらい、
受け取る側にも責任が生じてしまうので
それを背負う、背負わせる覚悟があるのか
ということを、
もしそういったことを語るなら、
考えざるをえない、と思います。
受け取る力を問うということもまた、
相手の受け取る責任を負う力を
信じることだと、
人間への信頼というものだと
今は、思っています。
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