🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

移動する人々

ざっくりですが、
インド東部を中心に
地図を描いてみました。

(南にケーララを入れたのは、
私が以前に住んでいて
今も好きなので
よく話に出てくるから、
参考までに……)

ブータン、ミャンマー、
バングラデシュに挟まれた
インド北東部七州
(セブンシスターズと呼ばれる)は、

モンゴロイド系というか
見た目や一部の文化など
日本人にも馴染みがあるような
人々が住んでいます。

こうして地図で見てみると
分かりやすいと思うのですが、
西ベンガル州とバングラデシュの
ベンガル地方は、
仏教圏に隣接しています。

人々の顔立ちも、時折
「モンゴロイド入ってるかな…」
という方を見かけますし

料理なども、
北インドのコッテリよりは
東南アジア寄りになってきます。

ごくわずかとは言え
新仏教ではなく、
昔からの仏教の流れを汲む方も
一部にはいらっしゃいます。

(またこうして見ると、
パキスタンとバングラデシュという
端と端を「東西パキスタン」として
ひとつの国としようとした事の
無茶がよく分かります)

ここで取り上げたかったのは
人、特に行者の移動範囲の広さや
流動性ということで

後期仏教の行者たちは
(な〜んとなく10世紀前後、
と思っておきましょうか)
この地図に特記したような
東インドからネパール、ブータン、
チベットあたりまでを
遊行していたと聞きます。

かつて玄奘三蔵が学んだ
ナーランダー僧院は、
現在のビハール州にありました。

バウルの、ファキール行者
(スーフィー=イスラーム神秘主義系)には
先祖がかつてアフガニスタンから
やって来た、という方もいますし

私の学ぶ系統にも、
トルコ系のスーフィーの流れが
入っています。

地図の中に青点を入れたのですが
これはクリシュナの聖地
ヴリンダーヴァナの大体の場所です。

クリシュナ信仰の聖者
チャイタニャは、
東インドのオリッサの
プリーにもいましたし
ヴリンダーヴァナも
訪れましたし
南インドにも訪れています。

南インド三楽聖のひとり、
18-19世紀のディークシタルも
北インドへ旅して
そこの音楽などを学んでいます。

言葉などをどうしていたのか
不思議なところもありますが、
あるいは当時は、
学識ある人の間ならば
サンスクリット語で
意思疎通がはかれたのかとも思います。

(難しい難しいと言われていますが
サンスクリット語は長い間、
南アジア〜東南アジアの
共通語として機能していたそうです)

当たり前のことのようですが、
今想像しうる以上に、
人々は、特に行者は
旅をしていました。
鉄道が通るずっと前から。

玄奘三蔵の名前を出しましたが、
中国の広さを見ると、
今想像するよりも、
インドに来る事は彼にとって
十分可能に思われたのかもしれない
とも思われてくるようです。

(もちろん、今よりもずっとずっと
危険な旅路ではあったでしょう。
それでも、そもそもその危険や
死との隣り合わせであること自体
ずっとありふれている日常
だったかもしれません。)

日本でも、松尾芭蕉の名を
出すまでもなく、
移動する人々がいました。

定住するのと同じぐらい、
移動する事、移住する事はおそらく
人間にとって自然なのでしょう。

もちろん、言語集団や文化集団の
多くが土地に紐づいているからには
定住している人々の方が
数としては多いはずです。

そうした違う言語や文化を持つ
土地を旅する
という体験をした人々は、
おそらくそれなりに多様性を知り
多文化の感覚を身につけていた事でしょう。

そうした人々が、
私たちが想像しうる以上に、
そして私たち一人一人よりもずっと
世界の広さを、
人々の様々に多様であることを
経験として知っていたかもしれない。

そのことを、こうした
人々の移動を想像してみる時に
少し頭に入れてみたい
と思ったりします。

宗教を超越した激情のスーフィー詩人カビール

「インドのオウム」永遠なる詩人アミール・ホスロー

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