
クリシュナの恋の遊戯と
その中でなぜ、
ラーダーという存在が
特別なのか、については
以前にも書きました。
ラーダーの献身と愛は
クリシュナが返そうものなら
持てる三界の全てをもってしても
返す事ができぬほどのもの。
何でも有するクリシュナが
唯一、自ら体験する事が
できないものが
ラーダーのクリシュナへの愛。
自らの愛によって、
ラーダーはクリシュナの
愛の師である
……というのが、
いわゆるゴウディヤ・ヴィシュヌ派
の信ずるところであって
(信ずるところというのは、
同時に真実の物語でもあります)
そのふたりに仕える
仕え女になる事を
至上のよろこびとします。
たとえばマニプリ舞踊の
ラース・リーラーも
同じ文脈のうちにあり
バウルもまた、
この理解に立ちます。
それとは別に、
これも以前にも書きましたが
かつて、私の中で
自分の中の男女の分離
のようなものに
おののいていた事があり
その解消の瞬間は
かなりハッキリと、
その男女が結び合わさって
溶け合っていくイメージが
ありました。
それがあってから、
私にとって、
こうした男女の結びつきのイメージは
特別な意味を持つようになりました。
(ちなみに恋愛ドラマが好きとか
そういう事ではありません)
理屈としては、
人と人との、あるいはただ他者との
結びつきであるならば、
女と女でも、男と男でも、
あるいは人間と犬でも、猫でも
よいのかもしれませんが
私にとっては、
このかたちであり
ラーダークリシュナが
その最も美しい顕現のひとつです。
カーリーとクリシュナが
一身となったこの画も

ちゃんと逸話や
ベンガル的理解を
ベースにしてはいるのですが
私個人にとっては、
ソースを同じくしている
ところがあるように思います。
冒頭に掲載した画は
今年描いたばかりのものですが、
元々は7年ほど前でしょうか、
結婚する友人のために描いた画
…のために練習として描いた
この小さな画でした。

グスタフ・クリムトの名画「接吻」
をオマージュして描いたこれが
とても評判も良く、
自分としても気に入って
大きな画でリメイクをしたい
という気持ちが育っていました。
また、この小さな画を描いた当初は
私のラーダークリシュナへの理解は
とても浅いものだったので
今の私が描いたらどうなるのか
見てみたいという気持ちもありました。
45秒ほどの短いメイキング動画です。
ラーダーの愛は
「狂ってしまう」と表現されるように
理屈を超えた、
理屈で御することのできない愛です。
「狂ってしまう」と言うと
ひょっとしたら、束縛とか
執着を想像されるかもしれませんが
もしもそうだったとしたら、
クリシュナが応えたはずもありません。
あるいは表面的にはその形を
取ったとしても
その根本には「無償の愛」
「無条件の愛」と訳されるもの。
何も混ざりものの無い愛。
私はよく、この「愛」という
日本語の言葉の
扱いの難しさを考えます。
たとえばサンスクリット語…
をベースにしたベンガル語では
「カーマ」は欲のある愛であり
「プレーマ」はそうではない愛
相手から搾取をしない愛
で、ラーダーの愛は
プレーマの方に当たります。
プレーマという言葉自体は
日本語ならたとえば、
「気にかける」とか
「おかげさまで」「無私の心」ぐらいの方が
近いのかもしれない、と
思うところもありますが
ラーダーのプレーマは
もっとずっと激しい
ただまっすぐに、
神性に向かいながら
神性だと意識すらしない
そういったもの。
だからこそ、ラーダーは
行者の理想の姿であり
ラーダーとクリシュナの再会は
三昧と同一視されるのです。
このたび、この
ラーダークリシュナの画を
手始めに、色々グッズを作ってみました。

スマホケース、クリアファイル、
エコバッグ、ポスター…など。
よろしければお求めください。
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