🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

パロミタのこと

インターナショナル・フェイス(らしい)

ある時、オーストラリアのインド生活洋品店で
インド系と思わしきお婆ちゃんに
「あなたどこの人?」とつかまりました。
「日本人ですが」と答えると、
ジロジロと見られた後、
「あなたはインターナショナル・フェイスをしているから
モデルをやると良いわ」
と言われました。

「はあ、そうですか」
と答えてサヨウナラしましたが、
確かに、フィリピンとか、マレーシアとか、トンガとか、
色々な所の出身に見えると言われます。
インドでは「どこの州から来たの?」
「ネパールでしょ?」とか。

ベトナム航空でもタイ航空でも、
当然のようにそこの言葉で話しかけられました。

そのせいかどうか、日本でも、
まず見逃されません。
目立つらしいです。
個性の塊だと言われた事もありますが、
どうしてでしょう。

第一印象では、怖がられたり警戒されるか、
過剰に興味を持たれるかの
どちらかである事が多いです。
日本の外だと、また違うのですが、
日本だとそんな感じで、
でもこれは私を守るものだと思っています。

最初の印象が良いよりも、
最初は怖くて、後で良くなる方が
楽でしょう?
インドだと逆の事もあるので、
ちょっと大変なのですが。

帰国子女

4歳から7歳までオーストラリアに住んで、現地校に通っていました。
7歳から10歳まではシンガポールで、日本人学校。
10代は高校まで日本で過ごしています。
大学でオーストラリアに行きました。
卒業してから2年ほどは日本で
フリーターをしたり大学院に入ったりしましたが、
インドに就職して、2年ほどで辞めてから、
日本とインドの往復の日々が始まりました。

画の歴史

とにかく、物心ついた時には絵を描いていました。
だから、「描けない」という感覚は分からないのです。
5歳ぐらいの時かな、オーストラリアで、
日本人の先生の絵のお教室に行きました。
今思い出してみると、生徒がみんな日本人でした。

日本に帰国してからは、地元の
青夏会画塾に通いました。
この時の先生は、生涯の師のひとりだと思っています。

高校の時、美術部の先生は面白い先生で、
準備室がとにかくヤニ臭かった事を覚えています。
きのこ狩に行くために学校を休む先生でした。
いつもみんなで美術室に集まってダラダラやっていました。
この時は油絵をモリモリ描いていました。

美術大学に行くかは随分迷ったけれど、
他にも興味のある事が多すぎたから、
行きませんでした。

大学に行ってからはしばらく描かずにいましたが、
卒業してから徐々にまた描くようになり、
2015年から「やっぱり描きたい!」が爆発して
個展をやり始めました。
再開当初は水彩画を描いていましたが、
今は顔彩とアクリルを使って描いています。

ずっと実際の物を写生して
育って来たのですが、
今は印象や体験を画にしていく事に
興味があります。

「日本的色彩で、インドの宇宙観が描かれている」
と言われた事もあるのですが、
そうした方向性を追求してみたいと
思っているところです。

言葉の歴史

生まれは日本なので、母語は日本語です。
圧倒的に日本語です。

幼稚園に行かずにオーストラリアに行ったので、
4〜7歳の時期は英語の方が強くなりました。
でもシンガポールに行ってからは日本人学校で、
10歳で日本に帰国してからは
英語はほとんど忘れてしまいました。

それでも中途半端に分かったものだから、
中学生英語では、
文法が全然理解できなかったのですが
それでも勘で英検準2級までは取りました。

オーストラリアの大学に進学する事にした高校の終わり、
英語を勉強し直しました。
そこで初めて三人称単数の動詞にはsを付ける、
などを理解しました。

大学では言語学がすごく楽しくて
一時は学者になるつもりでした。

大学でサンスクリット語を学び、
卒業してからはインドに行って
地域語のマラヤーラム語やベンガル語を学んで、
使うようになりました。

でもあくまで母語が日本語、
英語が第1.5〜2言語で、
他の言語はまだまだ全然、
日常会話がかろうじて使えるレベルです。

大学を英語でやっているし、
たぶん元々の言語感覚が強いので
翻訳や通訳はちゃんと勉強していませんが、それなりにできます。
人から見ると、才能の無駄遣いに見えるのだろうと思いますが、
私は貢献したいものに貢献できて、
割と果報者だなあと思っています。

教える事は天職だと思っていました

大学を卒業してから、
しばらく塾で働いていたのですが
教える事は元々好きだったし、
おバカな生徒たちが多かったのですが
かわいくてかわいくて
教える事は天職だと思っていました。

その後、インドのIT企業で
日本語講師をしました。
この時も、教える事は楽しかったです。
でも、インドでも企業は企業なので
ままならない事も多くて
1年と9ヶ月で辞めてしまいました。

そしてこの後から、
芸能の方向へ、戻れない道を
ひた進むようになります。

からの、声と身体の探求へ

武術を始めたのは高校生の時です。
元々、小学生の時から
強くなりたくて
本当は柔道がやりたかったのですが
何が恥ずかしかったのか、なぜか言い出せず
高校になってから躰道を始めました。

さて、高校生の時には
私は既に腰痛持ちでした。
それもあって、いつも
歩き方の色々な実験をしていて
当時は武術本とか武術雑誌もよく読んでいました。

オーストラリアの大学に行ってからは
合気道をやって、
2年ぐらいは
「それが本業なんでしょ?」
と言われるぐらい通ったのですが
ある時、突然違和感が襲い
道場に行っても何だかゾワゾワして
続けられなくなってしまいました。

それからは、踊りや声の方に
興味がシフトしていきました。

ひどい腰痛は、
日本に帰国して
祖母御用達の整骨院に行ったら
割とあっさり良くなったのですが
腰に負担がかかりやすい骨の形なので
歩き方の研究はずっと続けました。

インドに行って、
歌を学ぶ中でバウルに出会い、
(バウルについてはまたどこかで)
それまで避けていた
ヨーガを始めて
舞踊にも取り組むようになりました。

歌をやっていると言っても、
私は発声にとても問題があって
よく掠れていたし、
音程も全然取れないし
それを解決するには
より一層、身体に取り組むほか無いのでした。

ほとんどフルタイムで身体に取り組むようになって
また再び、武術の身体観に
フォーカスするようになりました。

身体の追求には
終わりが無いのですが
とりあえず、
腰痛だとか、そういう
基本的なところのバグは
大方解消しています。

だけどそれが、
ただの通過点になってしまった
ぐらいには、
身体の追求が人生になってしまいました。

奉仕の事

高校生の時に
文化祭実行委員長をやって
燃え尽きて
もう二度とこんな事はやらない…
と思ったのですが
その10年後ぐらいに、
バウルの師匠の所で
役に立ちたくなってしまったので
再びオーガナイズ的な仕事もするようになりました。

師匠の所で、
オーガナイズ的な役割をする事が多くなって
その最たるものは
彼女の来日ツアーだったのですが
大きなものになればなるほど
やはりプレッシャーが大きくて
一時はだいぶ調子を崩しました。

けれども師匠の所で、インドで
最も学んだ事は
他者のために動く
奉仕をするという姿勢です。

それを本当に喜びとして取り組む人々を間近に知って、
一緒に働いている内に
その美しさに魅せられていき
私もそのようになりたいと
強く願うようになりました。

そうして初めて、
自分に囚われていてこそ調子を崩す事や
それまでよく分からなかった
愛とか感謝とかの感覚
が段々と腑に落ちるようになって来ました。

それで元気になって来たので
最近は割とモリモリ
貢献したい人やものに
貢献できるようになって来て
毎日楽しくなって来ました。

色々な事をやってる?

色々な事をやっているように
見える事は知っています。
でも、私にとっては全部繋がっていて
どれも切り離せないし
全てが互いに補い合い、
高め合ってくれます。

言葉を愛しているのと同じだけ、
言葉にならない・できない領域があって
だけどそれを深めるためにも
今の私はまだ
言葉を必要としているのです。

今は、貢献したいものに、
いつでも奉仕ができるように
うまく回るようになるといいなと願いつつ
このブログを立ち上げたりしています。

インドへの(変則的な)道のり〜神話の生きる国

インドの山での沐浴で生まれ変わった話

Radical Honesty[極端に正直すぎる]と言われた私のコミュ障克服記

お知らせやブログ記事の元になるような雑感など、SNSなしに読めるといいなという方は無料メールマガジンの登録をご検討ください。

最初に、パロミタの自伝シリーズが11回に渡り配信されます。
もちろんお時間無いときはスルーしてくださいね、という前提なのでお気軽にどうぞ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA