年の暮れ、クリスマスイブに
画の松本一(はじめ)先生が逝去されました。
95歳でした。
コロナ以来お会いしに行くことができず、
最後にお会いしたのは
もう5年近く前になります。
私にとっては、
奥様の瑠璃先生と共に
子どもの頃の私を、
そのままに認めて受け入れてくれた
最初の大人のひとりです。
画は何よりも、観る眼差しであると
先生に教わりました。
洋画、油絵の先生ではありましたが、
いつだったか南画っぽい(南宋の画風)
と言われたそうですが
子ども教室でもいつも正座だったし
「日本の先生」という印象が強いです。
奥様の瑠璃先生は、逆に
すごくハイカラというか、
とても洗練された上品な雰囲気の方でした。
その瑠璃先生が亡くなられてから13年、
ダウン症だった長男のてっちゃんが亡くなられて7年、
息子さんともお話ししましたが、
よくここまで留まってくださったと思います。
瑠璃先生のご葬儀のとき、
私はまだオーストラリアで
参列はかなわなかったのですが
「俺はもう画は描かない」
と号泣されていたと聞いています。
それから、少しだけ描いたりもしたけれど
やっぱり、ほとんど描かれなくなりました。
「見せたい相手がいたから描いてたんだね」
と、遊びに行ったときに言われていました。
台湾育ちの先生は
たしか早稲田大学に行かれたあと、
池袋にある舞台芸術学院に
一期生として入学して
そのときに、美術の授業の先生に
「一度、画に取り組んでみなさい」
と言われて取り組んだまま
結局、演劇から逸れて
どっぷりと画の世界に
はまり込んでしまったそうです。
瑠璃先生もその頃の同期で
当時はお付き合いされていた
訳ではなかったそうですが
「一期生はみんな中退して、
誰も卒業してないんじゃないか?」
なんておっしゃっていました。
父親に言われて郵便局に勤めたものの
その父親が亡くなるや、さっさと辞めて
死亡退職金を使ってアトリエを建てて
庭で鶏を飼って、
卵を売っていたそうです。
(余談ですが、その庭には
最後に行ったときには、
アサリの殻が撒かれていて
「海みたいだろう」なんて
言われていました)
私が行っていた頃には、
すっかり住宅街だったけど
昔は農地ばっかりで
陽が傾くと、お百姓さんたちも
危ないからと帰っていく
そんな土地だったそうです。
そのうち、近所の人々に
子どもに画を教えてほしいと
頼まれるようになって
教室を営むようになりました。
旅行に行くたびに
「今度こそは、画を描かない旅ですよ」
と言われるのに、
やっぱり直前になると、
画の道具を入れてしまって
「瑠璃には悪いことしたなあ」なんて
でも瑠璃先生も画家で
二年間、パリに留学したそうですが
帰国すると、
「日本のモデルさんはつまらないわ」
と、あまり描かなくなってしまったそうです。
セルリアンブルーの青は、
あれは作り物の空の色だと思っていたけど
あっちの空は本当にああいう色をしてるんだって
瑠璃が帰ってきて言ってたなあ
そんな話もされていました。
私の画の色を、オーストラリアの色だ
と言ったのは一先生で、
シドニーの昔住んでいた家に行ったとき
本当に私の画の色がそのまんま広がっていて
びっくりしたものでした。
私が台湾に行ってみたいのは
一先生が育った土地を見てみたい
というのが大きいです。
亡くなられてからの方が、
会いやすいような気もするけど
まだやっぱり、
思い返すごとに涙が出ます。
絵を画と書いていたのも一先生で
画とイラストレーションの違いを
私に教えてくれたのも一先生。
「きみ、描けるね。
描けると思いなさい」
「いいね。
ここ、こうなって、こうなる。
ここ、もう一度見てみて」
一先生と瑠璃先生がいたから、
誰がどんな評価を下そうと
私は自分の作品を見下すことが無い
「画はね、出してやらないといけないんだよ」
と一先生に言われて始めた展示は
もう9年目に入り
今、また新たな展開を考えています。
うちに何作かある、
先生の花の画の色紙
次に引っ越したら、
ちゃんと額に入れて飾りたいな。
世間的には無名の画家かもしれない、
でも本当に愛され、
そして人の人生に影響を与えた人だったと思います。
そういえば、青夏会展は
銀座のギャラリーで
定期的にされていたのですが
「大人の展示に出してもいいぐらい」
と最初に言われた中学生のときの作品が、
芍薬のレリーフの元になった画で
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今でも、あのレベルには
追いつけていないのではないかと
思うものです。
(追記: 古いFacebookの投稿と、そのときの一先生の写真を見つけたので、また見つけやすいように、こちらにも記載します。)
一先生は、舞台芸術学院の一期生で、ある時「芝居がわからない」と言い出して、(「オメェがわからねえよって話だよなァ」)そうしたらデッサンの先生に「騙されたと思って半年画を描いてみろ」と言われ、その通りにした。それで、芸術というものがわかりかかった気がして、気がついたら画の方にのめりこんでしまった。その代の生徒で、卒業したのは一人、二人ぐらいなんじゃないか、とおっしゃる。
先生の育ちは台湾で、終戦で日本へ来た。あと半年戦争が続いていたら、兵隊にとられていただろう。今でも、台湾の方が故郷で、よく知っているという感覚がある。
お父さんが言うので、電報局で3〜4年働いた。夜勤で、昼間は画を描いた。お父さんが亡くなったので、仕事は辞めた。死亡退職金で土地を買い、家を建てて、鶏を育てた。そうこうしているうちに、近所の人から「うちの子に絵を教えてください」と頼まれ、「おれは、画を教えるなんてできないよ。一緒に描くぐらいしかできないよ」と、一緒に描き始めたら、2人、3人……と増えていき、10人、20人となったので、瑠璃先生(奥様)に「あなた、これは本腰を入れないと失礼ですよ」と言われた。そのうち、大人まで「教えてください」と来るようになった。
瑠璃先生は、舞台芸術学院の同級生で、やっぱり卒業はしていない。どこかで再会して、結婚したらしい。新聞で見かけた風景写真を気に入って、「明日から行くか」と、二人で画を描きに出かけてしまうこともよくあった。瑠璃先生がフランスに2年ほど行ってきた時、「ヨーロッパの画の空は、あれはつくりものじゃなくて、本当にあの色をしているんだ」と教えてくれた。瑠璃先生は、向こうでは裸婦をたくさん描き、日本に戻ってからはあまり描かなくなった。「日本のモデルは面白くない」から。
一先生は、結婚するなら、一杯ぐらいお酒が飲める人がいい、と思っていたけど、瑠璃先生はちょっとどころでなく強かった。まだ女性でお酒を飲む人が少なかった時代、飲みの席に連れて行くと先輩たちにかわいがられたが、たくさん飲んでも最後にはそつなくお勘定をしていた。
先生は、自分はヤ−−で、カタギじゃないんだとおっしゃる。画描きは、カタギじゃないんだ。やっぱり、カタギでは生きられない人間というのは、いるんだよなあ。
瑠璃先生は、たぶん私の画を気に入ってくださっていて、よく描いているのを見に来てくれた。今なら、きっともっとたくさんのことをお話しできるのに。毎週、自画像だったかな? を描くことに飽きていた時、「もうちょっと頑張って、ね。一先生も頑固な方だから、何回も同じものを描かせるけど、そのうち次にいくからね」と、たしかそんなフォローをくださったり。何年か前に亡くなられたと聞いた時、あまり何も感じなかったんだけど、今更すごく悲しい、私の身勝手。
私には、いるだけで救いになる存在というのがある。一先生は、まちがいなくその筆頭で、すてきなご夫婦はたくさん知っているけれど、一番憧れるのはこのお二人。私はお酒も飲めないし、相手もできるのかあやしいけどね。せめて梅酒ぐらい、楽しめれば良かったんだけど。ま、仕方ない。
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ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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