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「天竺」の歴史と「インド」の関係

天竺の語源

「天竺」は、昔の日本で
インドの事を指して言った言葉だと
言われています。

元々の漢語は、
「ヒンドゥ」や「シンドゥ」と呼ばれた
インダス川に由来し
音写したものが「身毒」や「天竺」でした。

同じように、英語の呼び名インディアIndiaも
元々は同じ言葉シンドゥから派生したようです。

最遊記で有名な玄奘三蔵は
仏教経典を求めて中国からインドへと旅した
実在した僧侶ですが
彼は「印度」という、現在も使われる
言葉を用いていますが
これは「月」を意味するインドゥInduに由来するそうです。

インドでは、のちの歴史の中で
「ヒンドゥー」は「イスラームではないもの」として使われるようになり
現在の「ヒンドゥー教」的な概念に繋がっていきます。

(この辺りは、日本で
「仏教が入ってきて神道という概念ができた」
のに近いものがあるかと思います。)

インドの言葉では、インドの事を
バーラタBharataあるいはバラト(bharat)と呼びます。
これは神話に由来する古い名前です。

一方で、西洋と東洋で
「外から見たインド」である同じ言葉(シンドゥ)が
それぞれ変形しながら伝えられて来た
というのも興味深い事です。


画像ソース:ウィキ「四海華夷總圖

日本にとっての「天竺」

日本にとっての天竺は、
釈迦と仏法の祖国であり
「体感的に実在する外国」である中国(震旦)の
その向こうにある「異国」そのものでした。

唐の時代の中国などは
インド系の人も移住していましたし
(奈良時代あたりには日本にもごく少数、いらしたようですが)
実在する国という感覚も強かったのかと思われますが

日本においては、より遠い異国、
むしろ琉球(沖縄)におけるニライカナイのような、異界というぐらいの
存在だったのではないでしょうか。
言葉に「天」の字が入っている事が
それを一層助長したかもしれません。

16世紀末、南蛮人(南方の野蛮な人々)
と呼ばれたポルトガル人との邂逅で
より現在の世界認識に近い
世界地図が日本にもたらされました。

とはいえ、当初
天竺とインドは同一視されていなかったようです。

むしろ、当時「シャム」と呼ばれた
タイの辺りが想定されていたようです。
17世紀、タイの日本人町で活躍した事で有名な山田長政は、
天竺の一部に住んでいたと認識されていました。

また一方で、イエズス会の宣教師が
天竺から来たと言われるような事もあり、
当時の「天竺」は
まさに「この世のどこかにある異界」
であったのでしょう。

1602年にイタリア人宣教師マテオ・リッチによって
中国語で記され出版された「坤輿万国全図」は
中国や日本も含み、
早い段階で日本にも紹介されました。

画像ソース:ウィキ(坤輿万国全図

この地図には「小天竺」「西天竺」が出て来ますが
「小天竺」はインド東北部を指し、
「西天竺」はペルシャ付近を指していました。
この17世紀頃から、徐々に
「天竺」と現在の「インド」が近づいて来たようです。

一方でこの地図ではインドは
「應帝亜」「印度厮當」と書かれ
(India、Indostanの音写)
こんな内容が記されています。

應帝亜(いまのインド)は総名であり、中国は小西洋と呼ぶ。應多江(インダス河)から名づけられた。半分は安義江(ガンジス河)内にあり、半分は安義江の外にある。世界の宝石宝物はこの地より出る。細布金銀椒料木香乳香薬材青朱など一つとしてないことがないので、常に東西の海商が集まって交易する。人は生れながら色黒くおとなしくてすなお。南の方の人はあまり衣服を着ない。紙はなく、木の葉を利用して書き、筆には鉄錐を用いる。国王も言語も所によって異なり、一つではない。酒は椰子で造られ、五穀の中、米だけが多い。諸国の王は世襲ではなく、姉妹の子が嗣ぐ。 王の子はただ俸禄で暮らす。

—高橋由貴彦(2009)による訳をこちらから孫引き

その後、どの地域を「天竺」とするのか
日本で作られる世界地図でも変遷します。
蘭学者による「天竺」の記載が無い世界図が現れる一方、
民衆向けの世界図には「天竺」が存在し続け、むしろ強調されていきました。

天竺がインドの旧名だと考えられるようになるのは
明治維新が起こり日本が開国し、
西洋からのインド研究の知識が入って来て
インドが仏教の祖国であるという認識が出て来てからの事です。

現在の「天竺」

今、インドを「インド」と認識している私たちにとって
「天竺」は再び神話的な音を伴って響いて来ます。

とはいえ「インド」という言葉も
曖昧さという意味では
実のところ、天竺とそう変わらないのかもしれません。

今でこそ一つの国として成り立っていますが、
元々は多くの小国があり、
今でも州により公用語が異なります。
「インドひとつでEUみたいな感じ」
と私は説明する事もあるのですが、
それだけ人によって印象も違うし、
文化の多様性の振り幅も大きいです。

それでいながら、間違いなく
文化的基盤が共有されている
面もあります。

そして、文化の伝播による
共有された文化という点では
たとえばヒンドゥー叙事詩の伝わるタイやバリを
「天竺」の一部と考える事は、おそらく
あながち間違いでもないのです。

ただし昔と今で違う事は、
幸にも不幸にも
インターネットの発達によって
私たちは簡単に、
実際にそこで生きているものの情報(の断片)に
触れる事ができます。

私自身のインドでの体験から言うと、
神話の時代や体験から、現代の生活が
今も地続きにあります。

これは本来、日本や西洋でも同じなのでしょうが
より鮮明に経験として浮かび上がって来るのがインドです。
現代の日本からアクセスできる
異界への入口の一つと言えます。

今の「インド」でもあり、「天竺」でもある
そんなインド世界を一つずつ
発信していけたらと思っています。

参考(All Retreived on 11th October 2019):
世界図に見る「天竺」認識に関する一考察 ―16 世紀末~18 世紀初頭の日本を中心として―」by 石崎 貴比古
ウィキペディア

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