🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

歌舞う詩人

ふと思い出したことで
そういえば15年ぐらい前に、
歌う生活がしたい
と思って、少し動いていました。

その後、自分の歌の下手さを
突きつけられすぎて
割とすっかり忘れていました。

ここ数ヶ月、
プロフィールの最初に
「詩人」と書いているのですが

それも、私にとっての
詩人という定義を
実現したい、と思ってのことだったのですが
それもけっこう忘れていました。

ということに気が付きました。

忘れているときって、
忘れているということを
忘れているものですよね。
(当たり前ですが)

で、忘れていることを
忘れていると
鬱傾向に入りやすいな
と思いました。

(傾向、というのは
私にとっては、
波のように乗りこなすもの
であるので……)

探究することが好きだし
常に発見していく喜びがあるから
稽古とか好きなんですよね。

(敢えて行ではなく稽古の方を書いています。
行は稽古よりも継続の要素が強い
と思っているので)

翻訳は、言葉の自負として
それなりに自信があるし
(プライドや高慢であっても)、

画も物心つく前からやっていたから
もう勝手な自信があって

歌う、ということは特に
いちばん自信が無いことです、
私にとっては。

でもそもそも、
歌われる詩というものへの興味は
私の古代への関心や
サンスクリットからインド音楽、
そしてバウルへと
向かった流れと不可分で

つまり、私の詩人の定義には
歌う、ということが含まれていて

語ることも、制作も
翻訳だって含まれているけど

おそらく自覚していた以上に
歌うというのは
核の要素のようです。

何が言いたいかというと

あんまり自信が無いから、
ちょっと忙しくなったりすると
それを理由にして
いちばん疎かになるのが
歌うという要素

それも、発声でとかではなくて
本当に、歌うということ

で、なんだけど
そこを失っていると
けっこう生きている意味も
見失って

心の方の体力が低下しまくる
とのではないか、
という仮説がこのたび浮かびまして

いや朝の行で
ずっと歌ってはいるんですけど
歌は祈りであるし
そこに大きな力は感じてきたけど

そこが私のメイン
であるという感覚や自覚は
間違いなく薄かったというか
避けていた節すらあり

そこがポイントなのではないか、
ということを思ったわけです。

いや、方向性としては
少なくとも4、5ヶ月前には
間違いなく似たようなこと
言っていたし、
やっていたんですけど。

本当に、腑に落ちるまでは
何度でも忘れ忘れまくる
生き物なんですね、人間……
それとも私だけ?

余談ですが、
歌を敢えて「うた」と平仮名で
書いてきたのですが

実はちょっとダサいというか、
微妙な違和感もずっと持っていて

なんだか「うた」表記を
あちこちで見かけるように
なってきた気がして、
むずむずして改めて考えていたのですが

本来の意味合いからすると、
むしろ歌でもいいんじゃないかと
最近はまた一周して思ったりしています。

もちろん、詩とか、唄とか
唄うとか詠うとか、
文脈で色々使い分ける前提ですし
その中で平仮名を使うことも
これからもあるでしょうが

歌の字を使うことも
また増えると思います。

詞という字も、
詩という字から
旋律が忘れられるようになって出てきて
更にそれも忘れられるようになると……、
みたいな話を
大学時代に教わりましたが

うーんこのあたりは、
ある意味曖昧さや自由度を残しつつ
私なりの使い分けを
確立していきたいです。

というわけで、8月の会で
「あの詩はどこに載っているの?」
と言っていただいた歌を
YouTubeに上げました。

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ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

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