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師という存在について

あくまで私がいる文脈、
私が学んできたこととして
師という存在について
書いてみます。

本当は、こうしたことは
かなり繊細で、
誤解を生じやすく、
あやまって伝播しやすい……
ということで
あまり書くべきでないかとも
思うのですが

だからこそ、
一方的なイメージが形作られたり
それを当てはめられたり

あるいは様々なことを
言い、あるいは信じ、
あるいは実践する人々が
いる中で

これはあくまで混乱を避けるために
私のスタンスとして
書いておきます。

ところで私は
バウルの文脈で書き
主にバウルを学ぶ体験から
書きますが
あくまで半人前の
修行者未満の修行者の書くことなので
あまり信じすぎないでください。

それでも、実践者の言葉
という点で、
外側から見て判断された物言い
とは、また異なる種類の
価値を持つものだ、
と認識しています。

いわゆる「グル」という呼び名には
洋の東西を問わず、
スキャンダラスな事件が付き物
と言って差し支えがなく

都市部の若いインドの人々の
精神的な探究を求める人々の間では
そうした搾取的な「グル」と
本来あるべき存在としての
グルという理想、概念の間で
引き裂かれるような人々も
おられるようで、

特定の人というよりも
サムシング・グレートとしての
「グル」を見出そうとする人も
多いようです。

グルの「グ」は闇、「ル」は光で
闇から光へと導く存在
であると定義されます。

近代的な教育を受けてきた私たちは
これは特に西洋的な教育においてですが
全ての人を対等な存在だと教わり、
そのように接することを教わります。

(日本はこの辺りの事情が
本音建前慣習その他諸々入り乱れて
ちょっと複雑ですが
今はひとまず、飛ばして
話を進めます)

そうすると、
私の見聞きしてきた限りでは
インド人であっても、
特に都会育ちの人々は
やはりこのグルという概念が
分かっているようでも、
切り離された文化ともなっています。

ある時、師匠に同行していた時
たしかイギリス人のインタビュアーが
私に言及して、
「お弟子さんで、今はお友だちなのね?」
と聞いて、
師匠は何とも酸っぱそうな顔をして

「うーん、私たちの文化では
そういう言い方はしないの。
グル・シッシャ(師弟)の関係は
他のどんな関係にもたとえたり、
比べることができないの」
と言いました。

このことが、私も年々
時を経るごとに、より深い
実感となってきました。

ある行者が言いました。
「グルも確かに人間だ。
だけどシッシャは、
そのように見てはいけない
そこに神がいるのだと
思わなくてはいけない。
人間であるからには完璧ではない。
それでも、
シッシャはグルに神を見る」

しかし、そもそも神とは何でしょう?
バウルはこうも言います。
全ての人の中に神がいる。
この身体の中に神がいる。

食事をふるまうセーヴァ(奉仕)
が重視されるのは、
それがひとりひとりの中にいる
神に奉仕する
確実な方法のひとつだからです。

禅問答のように
思われるかもしれませんが、
グルについて、
師について語ろうという時
こうしたことと切り離す事は
できません。

究極的には、グルに死ねと言われれば死ぬ
それがシッシャだ、とも
言えますが
(そしてその部分だけを切り取れば
あるいは誤用すれば、
世間を騒がせる事件などに繋がるでしょう)

それが本当に何を意味しているかは
究極的には、行者にしか分かりません。
それも、全てをくぐり抜けた行者にしか。
私などはまだ道に足を踏み入れたばかりです。

中途半端な論理や
判断を下そうとする思考からは
狂信にしか写らないもの。

まあ、ここまでの献身を
現実問題として求められるのは、
行者ぐらいで
グルの元に集う多くの人にとっては
(日本でいう在家信者にあたる)
人生の導きや奇跡をくれる存在
で十分と言えるでしょう。

ここまで来れば自明かと思いますが、
グル(師匠)というのは、
まともな人であれば
なりたがるものではありません。

グルになれるのは、
そこに導かれ、それこそ
「本来の」グルによって
その座につかされた者

それか、グルの何たるかを
知らないからこそ
名乗ってしまえる人。

「グルの座につく人は、
クリシュナ(神)が決める。
それも、もし私が
『ふふ、このパルバティ・バウルが
いなければ世界は立ち行かない……』
などと驕るようになれば、
たちまち蹴り落とされる。

私がこの座にいるのは、
グルが私に与えた仕事(奉仕)をするため。
そうでなければ、私はとっくに
ヒマラヤに篭って修行三昧してる」
と私の師匠は言いました。

……つまりシューキョーなんだな、
と思われる方も多いかと思いますが

もしも、この現実の
まやかしを貫く眼力を
獲得しえないのであれば、
師につく意味も無いでしょう。

献身が盲信と変われば、
修行も修行ではなくなります。

さてグルや師が厳しいのは
そうした妄想に入った途端に
叱責を飛ばすからです。
(そして、そこが
弟子と信者の違いにも
なるかもしれません)

チベットの高僧の言葉に
「師につくということは
麻酔なしで脳外科手術をするようなものだ」
というものがあって
(どなたのお言葉かを
忘れてしまったのですが)

私は「まさに……!」
と膝を打ったのですが

また師に依存させるようなことも
ほんもののグルはしません。
(何らかの段階として、
それが必要な時をのぞいて)
(というか、普通に依存すれば
突き放されるでしょう)

この、とても微妙で
繊細で、難しい仕事を
成立させられないと、
その器が無いままグルを名乗る人は
崩壊していくのかもしれません。

だからこそ、日本でも
「師は3年かけても探せ」
と言いますし
これがインドだと12年になります。

ここまで読んでいただいた方なら
お分かりと思いますが、
ある面では、このグルという概念は
日本の師匠という概念と
必ずしも重なりません。

しかしそれもおそらく
業界によってかなり違い、
ある種の宗教者の語られる
師匠についての話は
とても近しいものを、
私は感じます。

芸能などは、割と違うことが
多いように思われます。

おそらく、現代インドにおける
グルという言葉も、
同じように多様な理解とあり方が
あると思います。

ここでは、あくまで
バウルという文脈に入った
ひとりの日本人の視点から
綴っています。

あまりこういうことは、
このように残る形では
書きあらわさない方が良いかとも
思っていたのですが、

バウルの詩には、
師への献身をうたったものが
とても多いし、
何なら最後の結論が
それ以外であるうたは
たぶん無いと思います。

そういうことを踏まえて、
何かしら表明しておくことは
(何でも簡単に
検索できてしまうご時世だからこそ)
大切かもしれないな、と思い
書いてみました。

本来密教であることは
あまり文章化するべきではない、
とも思うのですが、
何を書いてもよくて、
何は書いてはいけないかは
判断をしつつ、
これだけ情報に溢れてしまった世の中では
ある程度は提示した方が良いのだろう
と、今のところの判断です。

昔であれば、そもそも
誤解・誤用されそうなことは
秘伝であり、流布されませんでした。

今も、本当のところは
結局、実際に体験しなければ分かりません。
(その体験すら、半端な状態では
信じるにあたうるものかは
分からないのです。)
それはよくよく踏まえておいてください。

ここで書いた認識も、
私はまだ半人前なので
これから変わっていくかもしれません。

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1 個のコメント

  • 非常に微妙で難しい問題についてのお話しをありがとうございます!
    いずれにしても、貴方の師が内側で「師という存在について」を書くよう促したので、
    貴方は理性・知性などの力も借りながら、それをすることになったのではないかと感じています。

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