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お金の話2

お金については、
かの聖者ラーマクリシュナが
一切触ることを拒否した、
と伝えられていますが

現代の生活は、もはや
貨幣経済を無視して成り立つものではなく
バウルなどの、元来
托鉢者であった者も含め、
あらゆる修行者や宗教者も
お金の利用を前提として
今では存在していると思います。

逆に、
「お金を喜んで差し出しなさい」
というのは、
カルト集団や詐欺・搾取システムの
常套手段のような謳い文句でもあり
お金は現代の賢者の石のような
毒にも薬にも麻薬にもなる
試金石のような、
劇薬のような側面もある
ような感じがしますが

それはともかく
この頃決めたのは、
「よろこんでお金を払い、
差し出そう。
よろこんでできないなら、
しない」
ということです。

改めてちゃんと振り返ってみると
私がこれまで、いかに
嫌々「支払う」という事に
取り組んできたかに気づき
驚愕するほどでした。

どんな少額であっても、です。

(あえて言うならば、
コンビニで1、2円を
募金ボックスに入れる時が
唯一、本当〜にいい気分で
差し出していたかもしれません)

支払う、ということは
目に見えて、
「自分のものが減る」ので
その度に、私は
どこかで、欠けていく感じを、
失っていくという感じを
味わっていたのです。

実際には、
ある種の物々交換な訳で
支払うことで
何かを得ているし、
そのことに納得しているはずなのに

なぜか、支払うという行為を
「失う」行為だと
感じ続けてきたのだと
ふいに気がつきました。

それでは、どんなに
良い目的のために
貢献するのであっても、
「捧げる」と言ってはいても、
奉仕と言うには犠牲であり
バクティ(献身・信愛)と呼ぶには
欺瞞がある。

それは、これまでいかに、私が
自分自身を騙し、欺いてきたか
そのままに世界に接してきたのか
ということです。
あまりにも無自覚に。

そもそも、
「何かを得るために何かを差し出す」
という理解自体、
真理ではあるのかもしれないけれども
何かを人質に取られたような、
被害妄想が入っているような気もします。
(これ自体が私の被害妄想でも
ある訳ですが……笑)

失うものの大きさ/小ささの
目盛りに目が眩んで、
得ているものの大きさ・豊かさに
盲目になっている状態、と言いますか。

たぶん、ある種の循環の状態になれば
そういう表現にはならないのではないか、
(同じ言葉でも受けとめ方が変わる、とも)
とか、別種の、
共通するところがある体験から、
思ってみたります。

「よろこんでお金を払い、
差し出そう。
よろこんでできないなら、
しない」

の結果として、
困窮がやって来るなら、
それはそれで
潔く受け入れようと、
ひとまず決めました。

(でもそういう事では
ないんだな、というのは
既に、実感として
分かってきてもいます。

あらゆることは、
思いもかけぬところから
やって来るから。

お金自体は、良くも悪くも無く
使うにせよ使わぬにせよ、
それを特別視しすぎている事
それ自体に不均衡・偏りがある
という事なのだと思います。
というのを、体験として
理解しようとしているところ、
なのかな)

ちなみに、それはそれとして
私が自主公演などを
最低限の値段に抑えるのは
変わらないポリシーです。

そうそう、タイトルに「2」
を付けたのは、調べたら
3月にも同タイトルで記事を書いていたのですが、
正直、今とは心の状態が違いすぎて
自分で書いた記事なのに
とても読みにくいという……。
そこまで考え方が変わった訳ではない
と思うのですが、
ただ、あり方が変質したのだと思います。
3月当時よりは、より深いところに
焦点がシフトしているのでしょう。

これです↓

お金の話

 

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