自由になるために奴隷になる〜人はなぜ修行をするのか

2年ほど前に受けたインタビューのテーマは、「人はなぜ修行をするのか」でした。

「修行で私は自由になる」インドで見つけたバウルという生き方

当時は何もかも分かっていない状態で
どうにかして光を掴もうと
もがいていた、しっちゃかめっちゃかな話を
ライターの根岸さんが綺麗にまとめて下さいました。

今も半人前の道半ばではあるのですが
当時よりは見えている事もあるので
改めて「人はなぜ修行をするのか」について
述べてみたいと思います。

人はなぜ修行に入るのか

多くの人が修行に入るきっかけは、
何らかの苦しみである事が多いと思います。

時に、神様に魅せられて…という
生まれながらに覚者のような人も
いらっしゃるかもしれませんが

仏陀でさえ、世の中の生老病死の苦しみを無視できなくなった事で
華やかな王宮の生活を捨てて
修行の道へと入ったのです。

しかし同時に、とても大事な事ですが
「逃避」は修行ではありません。

始まりは苦しみであったとしても、
逃避として修行を選び
そこに安住しているのだとしたら

もはや修行は修行ではなく
ただの逃避になってしまいます。

修行を通して、逃避から始まったのだとしても
逃げる事なく向き合うという実践に入り

自ら前を向いて生を切り拓く
生に囚われず、生の奴隷にならず
生と生きる自由さを体現する事

これが修行のめざすところだと思います。

雑用のプロ

ちなみに私見ですが、
修行をするという事は、
雑用のプロになるというようなところが
あると思います。

修行の種類にもよるでしょうが
少なくとも私の通ってきた修行の道は
奉仕行を最も尊ぶ道であり

つまり、雑用を
純粋な喜びとしてできるレベルまで
極めるのです。

掃除であれ、料理であれ、配膳であれ、
あるいは必要あれば
オーガナイズ、マネジメント、その他
貢献できる事は何でも貢献します。

うまくできなければ、
容赦なく怒られます。

そのようにして、
楚々と一所懸命に
他者のために働く事を通して

些細な事にも気がつくようになり

人として生きる根本を
学んでいきます。

この学びがあって始めて、
歌い舞いも、身体のヨーガも、
生きる事そのものの気づきや理解と
分かちがたく、豊かに繋がってきます。

「何でもやっていい」という「自由」の罠

「師匠をいただくという事は
麻酔なしで脳外科手術をするようなもの」
という、あるチベット僧の言葉を
どこかで読んで
(どなたの言葉だったか覚えていないのですが
たぶん破天荒さで有名な方だと思います)

当時、苦しみのただ中で
のたうち回っていた私は
「全くその通りだ!」
と思ったのですが

今の時代は、
師匠なしの覚者も大変多く
世に出ていらっしゃる時代です。

それでも師匠をいただく理由は何でしょうか。

それは一言で言えば、
「本当の望みを人は見誤るから」です。

シヴァーナンダもヨーガの本で
「ヨーガによって得られる超能力は
副作用のようなもので、
そこで捕われれば罠にしかならない」
と書かれていますが
(記憶を元に書いているので
実際の言葉は違うかもしれません)

いかに
「本当の望みを生きる事が自由になる事」
だとしても

私たちの多くは、自分の本当の望みさえ
自覚する事ができません。

結果として、途中で素晴らしい
いわゆる「悟り」の体験を得たとしても
少しの増長から迷路に逆戻りし
自由から遠ざかってしまいます。

師匠と呼ばれる存在は
少なくとも本来は、
そうした修行の過程で起こる様々な事を
よく理解し、
弟子の性質に応じて時に厳しく、時に優しく
導く事ができるからこそ

師匠たりえるのです。

私の師匠パルバティ・バウルは
師匠は最高の弟子である、と言います。

師匠に対し、弟子である事に
忠実であるためにこそ、
師匠になる。

また、少しでも勘違いして
「私が」の精神に陥れば
この椅子はいつでも取り上げられる
ともおっしゃいます。

捧げる事で自由になる

ヨーガは
考えてはいけないが、学びを止めてはいけない。
信じなければいけないが、妄信してはいけない。

中道という言葉がありますが、
まさに、ネガティブになってもいけないけど
ポジティブが過信に転じてもいけない。

それをいかに実行しようとしても
人の業とはそんなに簡単に
解消されるものではありません。
(まあ、多くの我々凡人にとっては)。

そのうちに、
弛まぬ努力は必須だとしても

同時に、
自らをより大きな存在
運命や世界のようなものに
捧げて委ねるしかないとも
分かってきます。

ここまで来て、より宗教的な響きのする
恩寵とか、慈悲とか、大悲とかの
言葉が現実味を帯びて
実感されてきます。

自らのできる限りの事は
放棄しないけれども
同時に、
根本的には、より大きな流れに
信頼して委ねてしまう
しか無いのです。

これは、依存とは違いますし
(しかし油断をすれば依存にもなりうる)、
妄信とも違います
(しかし油断をすれば妄信にもなりうる)

自分を捧げる事、
身を委ねる事にこそ自由があると同時に
そこにはいつでも盲目に繋がる罠がある。

だからこそ、覚者である師匠の存在が
重要なのです。

そして同時に、
それがいかに容易く、「師匠」を名乗る人に
危険な利用をされてしまうか
ご想像いただけるかと思います。

「盲目」を「信心」と偽る事は
容易に、安易にできるからです。

「師は3年かけても探せ」と言われる
その所以は、こうしたところにも
あるのでしょう。

まだ私自身の理解の浅い頃は、
世間に広まっているヨガは
本当のヨーガではない…と、
軽々しく言う事ができましたが、

今の私の感じる事として、

修行の道は険しく、危険で
いかに美しく実り豊かで、よろこびに溢れるものだとしても
誰にでも勧める事はできません。

それならば、
その上澄みを飲み役立つ事があるならば
それはそれで素晴らしい事ではないかと
この頃は、思っているというのが
私の現状です。

だから修行の道は、やはり
もう他に道が無いというぐらい
のっぴきならない人が
入るものなのだという風に
思っています。

一時期、貪るように読んでいました。様々な宗派・宗教の修行者に取材した本。

この現代日本で、こういう姿勢で
修行をしている人とは…?と
思われるかもしれませんが

意外とその辺におりますので
よかったらそのうち、歌舞の公演や
画の展示会にいらして下さい。
来年からは、身体(立ち方・歩き方)ワークショップも
開始します。

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