🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

奥から湧き上がる感情

今年の前半に、
「奥から湧き上がる好き」
という感情を認識することがあって、

それは、もしかしたら
その前にも普通に体験していたもの
なのかもしれないけど、
私自身が認識をしたのは、
初めてのことでした。

それで、これはひょっとしたら
プレーマ(無条件の愛、と訳される)
に通じる感覚なのでは、と思い

「無条件の愛」と訳される概念について

それからしばらく、
色々な感情を観察していました。

悲しみであれ怒りであれ
あるいは好きでも
何でもいいのですが
個人のレベルの感情だと
胸のあたりにあるのだな、
と思いました。

奥から湧き上がってくる好き、
という体験は、
いつでもあるものでは無かったけど
あるにはあるもので
これは胸の感情とは
何かが違うようだと、思いました。

ここでいう「奥」は、
胸に比べると、肚(はら)、
ということになると思いますが、
もっと奥深くから、
という感じもあります。
(でもそこも含めての、はら
なのかもしれない?)

あるとき(それは
東京クルド」というドキュメンタリー映画を
見たときのことだったのですが)
奥から湧き上がる悲しみがあって

あれ、悲しみも奥から
湧き上がってくるってどういうことかなと
ちょっと意外に思ったのですが

すぐに、それが
ある種の共感から来る悲しみ
であるからだと、気づきました。

だから、愛と共に、
慈悲ということが言われるのでしょうか。
あの明王たちの怒りは、
慈悲からの怒りだと
常々思ってきましたが、

ソース:ウィキ

私自身は、そんな崇高な怒りは
たぶん感じることは
ほとんどありませんが

あ、これはたぶん
あの明王たちや、
恐ろしい形相の女神たちの
慈悲の怒りに
通じるものなのだと
何となく思いました。

バウルでも、慈悲ということは
よく言われます。
カルナー、クルパー、ダヤー……
細かく言うと違いはありますが
どれも、慈悲周辺の言葉です。

私の師匠のパルバティ・バウル
「バウルは慈悲の戦士である」
と言われます。

イエス・キリストの「憐れむ」は
古典ギリシア語では
スプラングニゾマイ
「内臓を突き動かされる」という
意味であった、というのは
今では割と知られた話かと思いますが

(私は本田哲郎さん訳の聖書で知りましたが
初めて聞いた! という方は
「スプラングニゾマイ」で
検索してみてください)

このスプラングニゾマイ
の元になったヘブライ語は、
ラハミーム(家に帰って確認して修正するかも)
「子宮」という意味だそうです。

能楽師の安田登さんは、
漢字の「心」の象形文字は
よく言われるように心臓では無く
男根ではないか、と書かれていますが
(このあたりは安田登さんの、
特に論語関係の本をご参照ください。
めちゃくちゃ面白いです)

つまり、ある種の感情、
根源的なところに繋がるような
と言ってよいものか分かりませんが

一般的に言われる「感情」
と一緒くたにしてもいいけど、
人によっては一緒にはできないような
そういう領域の
奥から湧き上がってくる類の
ある種の感情?があって

本当の愛と呼ばれるものや、
外からは「無私の奉仕」としか
見えないような行為を
引き起こす、根源的な力

たぶんそれは、
外形的な、表面的な、あからさまな
「愛」に本来限るものではなく
でも本当の、本来の
深い感情は、もしかしたら全て
そこに由来するのかもしれない
(ラサや、世阿弥の「花」も
あるいはそこに通じるのかもしれない)

感情の純化〜味わう「ラサ」、生じさせる「バーヴァ」

プレーマやシャクティ、クンダリニーにも
おそらく通じるもの……

それは、とても身体的とも言える
(私が書いていることは
基本的に全部そうなので、
特にあえて書いてきませんでしたが
ふと思いついて、今書き足しています)
あるいは、全く身体と切り離せないもの、
不可分なものである……。

そんなことを思い、
思ったよりもまとまらないのですが
この文章を終えます。

 

お知らせやブログ記事の元になるような雑感など、SNSなしに読めるといいなという方は無料メールマガジンの登録をご検討ください。

最初に、パロミタの自伝シリーズが11回に渡り配信されます。
もちろんお時間無いときはスルーしてくださいね、という前提なのでお気軽にどうぞ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA