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インドのカーストと差別について:主に芸能と歌にからめて

バンガロールの糞尿処理についての記事を読んで、
改めてインドのカーストについて想いました。

芸能などにからめながら、
私の知りうる範囲でカーストと差別について書いてみます。

ケーララのカーストの様子

私がインドで最初に住んでいたケーララは
少なくとも表に見える所では
あまりカーストや宗教による差別を感じる事はありませんでした

何しろ、一つの交差点に
ヒンドゥー教のガネーシャ寺院、イスラームのモスク、カソリック教会が
密集しているような所です。

当時住んでいた家の大家さんはNPOに勤めていて
そのNPOは貧困層に、持続可能で低コストなトイレの設置を行なっている所でした。

私の大好きな小説「あたいのじっちゃん、象、飼ってたの」は
1951年の小説ですが
あるイスラームの一家が親戚の裏切りなどに遭い
落ちぶれて、
人のいない時間帯に道路で用を足している様子などが描かれています。
(その後開明的なイスラーム一家の知己を得て、
自然派簡易トイレを設置したりします。
もっともこの小説のポイントはそこではなく、
ひたすら主人公のかわいさというか、内面の美しさと無垢さにあると思っていますが…。

作者のバシールは、他の作品で
ヒンドゥーとクリスチャンのカップルの
プロポーズから結婚生活までをコミカルに描いた作品などもある
ケーララを代表する作家の一人です)。

そんなケーララでも数十年前まで、
アウトカースト(穢多非人)はバラモンの
10メートル以内に近づく事さえできなかったそうです。

ケーララで最も権威あるお寺の一つであるグルワユール寺院は
現在も非ヒンドゥー教徒の入場を禁止していますが
インド現代仏教の創始者アンベードカルが運動を起こすまでは
アウトカーストの人も入る事が許されませんでした。

学問的には、ケーララのほとんどのカーストは
専門的には「アウトカースト」だと言われる事もありますが、
ケーララ社会の中では階層があります(ありました)。

また、普段はてらいなく仲良くしていても
結婚となると、同じか近いカースト同士が普通だとか
異なる宗教間の結婚は少ないとか、
そういう事は今もあります。

憑依芸能テイヤムとカースト

以前紹介したケーララの憑依芸能テイヤムも、
祭の際に神になるのは、普段は底辺のカーストの人々で
普段は看守や日雇いの仕事など
底辺と言われる厳しい仕事をしています。

南インドの祟る女神〜テイヤムとポンガーラ

毎年、神になる人は同じなのに
祭が終わると底辺の仕事が待っている現実は変わらない。

普段は中東に出稼ぎに行っていて、
年に一度だけ神様になるために戻ってくる人もいます。

こうした現状は、今も大して変わる事なく
むしろ経済的な苦境や伝統を伝える事のいや増す難しさという形で
生き続けています。

(これは主にWilliam Dalrymple ”Nine Lives” 所収のエッセイを読んだ記憶や、ケーララにいた当時耳にした話を参考に書いています。)

バウルとカースト

同じくNine Lives所収の話で
バウルの男性二人に取材した話があります。

二人とも私は師匠を通して存じ上げていて
お世話になってもおりますが

この中で、デーブダースさんの話
バラモンの家に生まれながら
アウトカーストやイスラームの家の子と仲良くする度に叱られ
放浪のバウルにくっついて数日留守にしたりしていたら
ある日自分の父親に袋叩きにされて

生まれ育った家から、村から彷徨い出て
バウルになった、というエピソードが紹介されています。
バウルはカーストや宗教による違いを否定する
歌舞を修行表現の一つとする行者です。

同じような話は、ケーララ出身のシャシ・タルールの短編小説にもありました。
バラモン・カーストの少年が
アウトカーストの友人と仲良くしていて
家族に叩きのめされる。
でもやがて大人になったその友人が
公務員として近くの町に赴任してきて…という掌編。
(シャシ・タルールは2006年に国連事務総長選挙にも出馬した政治家ですが、
とても評価の高い小説家でもあります。
件の短編は別のアンソロジーに載っていた作品ですが、日本のアマゾンでは見つからず画像が引けないので、彼の代表作の一つを下に置きます。今のところ邦訳は無いようです。)

 

とても有名なバウルのうたに、
「生まれは関係ない」
というものがあります。
下はラロン・ファキールという
19世紀に生きた伝説的なバウルを題材にした映画の一場面です。

生まれなんてどうでもいい
ここはなんてへんてこな工場なのか
真理の道では
誰も拒否されない
心よ、見えているよ
くだらないまやかしさ

この世に来た時はどんなカーストで
それからどんなカーストを得て
また去る時はどんなカーストになるのか
一度考えて教えてくれよ

バラモンもチャンダールもチャマルもムチも*
(*バラモン以外は全てアウトカースト)
皆同じガンジス川の水で身を清める
だから何だって言うんだ
閻魔は誰も見逃さない

こっそりと娼婦の飯を食う男の
カーストはどんな事になる?
ラロンは言う
誰がどのカーストだとか言う
幻想は今も続いている

和訳:パロミタ

ラロン・ファキールの生涯については
色々な説があり論争が続いていますが

ヒンドゥーの家に生まれたものの
水疱瘡にかかり、川に流され
流れついたイスラームの家で手当てされて生き延び
しかし生まれ育った村に戻っても
イスラームの家で飯を食べたという事で拒否され

ファキール(バウル、スーフィー行者)の師匠につき、
放浪のバウルになったと言われています。

下は同じうたのより現代的なバージョン。
バングラデシュでは、
ロックバンドなどによるバウルのうたの歌唱・演奏が盛んだそうです。

タミルのカースト差別を訴えるラップ

これは確か軽刈田凡平さんが紹介されていて知った
カースト差別を告発するタミルのラップです。

今こそ革命だ
ババ・サーヒブ(アンベードカル)の道を行こう

土地を奪い高利貸しして
俺の先祖を騙して隅に押しやった
孫の俺はもう黙っちゃいない
善人の振りはもうこりごりだ
今こそ正義をふりかざす時

熱波に血が滾る
埃の風に瞼が震える
真実を見せてやる
お前の罪を忘れない

8車線の高速道路に意味があるのか?
腐敗は四方八方に暴かれるだろう

旱魃は続いている
雨が降っても飢饉は続く

今こそ革命だ
ババ・サーヒブ(アンベードカル)の道を行こう

有名人のゴシップでメディアは賑わい
貧者の闘いは検閲される

インドの栄光なんて夢のまた夢
この国の経済は崩壊してる

平等のための闘争は始まっている
日に夜に戦っている

名誉なんていらない
勇気さえあればゴールは遠くない

蚊に耐えているうちに夜が明けた
お前の良心は腐ってる
排水溝を見れば鼻をつまむ
でもそこが俺の住む家だ
見てみろよ

俺が思うに
この青空は優しい人間しか受け入れない
信者は根こそぎにされるだろう

カーストはもう無いなんて言うが、
嘘つけ
田舎の村を見てみろよ

インドの未来は若者の手にある
青いインクで革命を起こそう

俺の命の限りこの意志は変わらない
人類愛だけが俺の尊厳

人類全てを人間として尊べ

今こそ革命だ
ババ・サーヒブ(アンベードカル)の道を行こう

(簡易意訳・パロミタによる)

ここで名前の上がっているアンベードカルは、
自身もアウトカーストの出身であり
法務大臣にもなり、インド憲法の租案・制定に関わりながら
仏教に改宗し、インド現代仏教を創始して
数十万人のアウトカーストの改宗を引き起こした傑物です。

少しだけ抜粋を…と思っていたら、
気がつけば全部訳してしまっていました。
タミル語はほぼ分からないのと、
訳している現在、音声をそこまで聴き込める環境に無いので
英語字幕からの意訳な事もあり
意味が取り切れていないところがありますが…
(日本語としてちょっと不思議な表現は、
英訳の意味が取り切れていないのであえてそうしています)

コメント欄を見ると、他州の人から
「言葉は分からないけど、分かる」
というようなコメントが多く続いています。

タミル州のカースト関連のニュースは、
時々ぎょっとする程凄惨なものを聞きます。

普通に暮らしていて
外国人がインドでカーストによる差別を体験したり
実感する事は、
NGOに従事されている方などをのぞけば
割と少ないのではないかと思いますが

まだまだ存在している現実なのだと思います。

古典音楽の世界でも、
南インド古典音楽の名手T.M.クリシュナが
バラモン出身でありながら
南インド古典音楽業界やシステムを
バラモン偏重主義として批判し、
バラモンの象徴でもある
自身の肩からかける黄色い紐を引きちぎり
反旗を翻している事が知られています。

 

私はいつでもインドのこのカオスと
渦を巻くようなエネルギーの中で
この社会、世界、人類のために
闘い続ける人々と出会ってきました。

私にとってのインドは、彼らの事であるとも言えます。

炎のように激しい表現もある一方で
しかしいつもどこかに、
彼らの、特に芸術表現には一種の甘やかさがあるように思います。

上で少し紹介したバウルの公演は
私も日本で定期的に行っていますので、
ご興味があれば
ぜひおいで下さい。

(ツイッターなどで最新情報がご覧になれます)

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