3月22日、歌舞いのソロ公演を行います。

「タゴール・ソングス」試写会に行って来ました

ドキュメンタリー映画「タゴール・ソングス」
試写会に行って参りました。

ラビンドラナート・タゴールと言えば
言わずと知れた、アジアで初めての
ノーベル文学賞受賞者

岡倉天心など日本の文化人とも交流があり、
1916年には日本を訪れています。

詩人であり、作家であり、晩年は画家でもあり
名門の家に生まれた領主でもあり
教育に人生と情熱を注ぎ込んだ、文化的な革命家でもありました。
タゴール・ソングは、彼が旋律のある詩=歌を作ろうと
後年熱心に取り組んだものの一つです。

この映画を観れば誰にでも分かるように
ベンガルの人々にとってタゴールの歌は
当たり前に生活の中にあるもの、
ベンガル人が共有する大きな財産です。

私がインドのベンガルにいる時は、大体
タゴールの創設した大学のあるシャンティニケタン(平和の郷)
という街の近くに滞在しているため、
大学関連の人や施設ともよく関わりがあります
(というか、あの地域にいて関わらないという事ができない)。

タゴールとバウル

もし 君の呼び声に誰も答えなくとも
ひとりで進め ひとりで進め

もし 誰もが口を閉ざすなら
もし 誰もが顔をそむけ 恐れるなら
それでも君は心開いて
心からの言葉を ひとり語れ

 映画・再録シナリオより

私は元々、ベンガルという地域に
特別惹かれていたという訳でもなく
本当に事故のようにバウルに出会い、
関わるようになっていったので
タゴールの事もよく知りませんでした。

僅かながらお勉強させていただいたのは、
師匠来日ツアーのプレ・イベントの一環で
東京外大の丹羽京子先生に
「タゴールとバウル」というテーマで
トークをお願いした時でした。

そこで初めて、タゴールが
ブラフマ・サマージという
超宗派的な信仰を背景に育った事、
そして長じてからはやがて
深くバウルに傾倒していった事を知りました。

実際、その当時の知識人からは
ただの汚い行者というような認識だったバウルを、
重要な精神的・文化的伝統の担い手として
紹介したのはタゴールその人だったのです。

タゴールの詩の印象

とはいえタゴールの詩は
バウルの詩に親しんできた私からすると
とても分かりやすい、
しかし分かりやすすぎて、逆に
どう付き合えば良いか分からないような
ところがありました。

一応留保しておきますと、
これはベンガル語を学ぶ外国人だからこそ
起きる印象だと思われます。

試写会でいただいたパンフレットを見ても、
監督の佐々木美佳さん含め
「最初はピンと来なかった」という印象の方が
やっぱり多いように見受けられます。

私は正直、今も「音楽! 歌曲!」という雰囲気の
タゴール・ソングは苦手です。
この映画の最初の方で、市井の人々が
嬉しそう〜にタゴールの歌を歌う場面が
出てきますが、そのようなタゴール・ソングが
一番、ジワリと内側に響いてきます。

しかし今回、この映画を観て
意外なほど、タゴールの言葉が「分かる」
ような気持ちになりました。

たぶん、私自身の
バウルの伝統への理解が以前よりも
ずっと進んできた事が
要因としてあるのではないかと思います。

バウルの詩は、タゴールに比べると
ずいぶん謎めいていて、
隠喩や特定の表現に溢れています。

それもあり、先ほども書いたように
タゴールは「とても分かりやすい、
しかし分かりやすすぎて、逆に
どう付き合えば良いか分からない」
という印象があったのですが

今回、「彼がうたっている事を
私は確かに知っている」という感覚が
生まれました。

以前、師匠が
「バウルを真に理解した人がいるとしたら、
それはタゴールだった」
と言われていました

表現こそ違えど、
バウルの詩から感得しえる事を
この人はあくまで自らの表現として
詠ったのではないだろうか
という気がしてきたのです。

そのように本質(いわゆる真理とか、そういったもの)
に触れているからこそ、
あらゆる層のベンガル人に「刺さる」のかもしれません。

深いところで共有されるうた

私はチットランゴダ 私は王の娘
女神ではない ただの女でもない
私はチットランゴダ 崇められる神ではない
疎まれる者でもない
もし あなたが私の苦難に寄り添うなら
もし 私もあなたと苦難を共にできるなら
そうすれば 私のことが分かるでしょう
でも それはあなたが決めること。
私はチットランゴダ 私は王の娘

映画・再録シナリオより

パンフレットの軽刈田凡平さんをはじめ
他の方も書かれているように、
日本にはタゴールのように
皆がこれほど深く共有できる歌や詩はありません。
(イランのハーフェズなどは、
ちょっと似たような存在なのかな?)

この感じはただ聞いてもとても想像できないと思う、
その感じを、一人一人への取材を通して
この映画は本当によく感じさせてくれます。

あと、私はそれこそ軽刈田凡平さんが紹介されているような
インドのラッパーの一部にはとても惹かれていて、
日本や英語圏のラップにそこまで惹かれた事が無いから
それも不思議ではあるんだけど

登場するラッパーがタゴールをとてもリスペクトしている
その取り上げ方なども、
あの厳しいタゴール・ソング教師のお爺さん含め
バラエティ豊かな人の景色が見えるところなど

ある意味では、「だから何?」と言われてしまうかもしれない
本当にタゴール・ソングの周辺の景色を綴っていっただけ
の映画と言えばそうなんだけど、
そこにこそ意味がある

ベンガル人が共有する大きな財産である
タゴール・ソングがどのように「生きて」いるか、
海辺で貝殻を拾い集めるように見せてくれる映画です。

詩的な言語

ところでベンガル語自体の持つ
詩的な性格のようなものについて
最近考えていて
一言で言えば、羨ましい。

日本語も詩的でない訳ではもちろん無いけど
現代日本語の標準語は、
私はどうにも違和感があって、
現代英語もそうなのですが
私が第一言語レベルで使える言葉は
よほど深く深く古代の方に自分で潜っていかないと
あのレベルの、自然な詩的なところには
中々行けないように感じています。

映画の字幕制作には
色々な制約があるので、
ここで翻訳の事を持ち出すのは
いささか気が引けるのですが

映画上で「心」と訳されていたいくつかの言葉は
プラーナであって
プラーナは命であり、この身を駆け抜ける息吹です。

日本語の「心」という言葉は、
特に現代という文脈においては
いくらか「浅い」きらいがあります。

タゴールの詩には、
心よりもずっと深いはたらきかけがある
と、私は思います。

そのレベルの深さの日本語を、
私は持っているだろうか。
そんな事を、この頃考えています。

 

タゴール・ソングス
上映は4月18日〜ポレポレ東中野にて。

 

ところで、タゴールとガンディーと、
それから聖オーロビンドについて
彼らの夢と交流と、そしてそれぞれ大成していった道について、
近々簡単にまとめられれば…と思っているのですが、
中々ちゃんとリサーチをする時間が取れずにいます。
いずれ。

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