🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

葛藤を隠さないこと、爪弾かれる琴であること

感謝なしに私は成り立ちえない
と思うようになって
だいぶ経ちますが

まだ納得しかねるものとして
「生きていることそのものへの感謝」
がありました。

そもそも生きているからこそ
生まれてしまったからこそ
こんなしち面倒なことになっているのに……
という気持ちが拭えなかったのですね。

このところ大波のように
色々なことがやって来ているのですが

その大きな要因は、
私がちゃんと「生きていくこと」
を決めたから、ということ
である気がしています。

ずっと、いつ死んでもいいように
という前提で生きてきたのを
生きていくという前提に変えたから

それならば受け入れなければ、
昇華しなければいけないものが
嵐のように襲ってきている
ような気がします
(そういうことにしています)。

あとはもう、
ここまで自分を追い込まなければ
突破できない何かがあるのだろうと
(信じるしか無い)。

初めて、産んでくれてありがとうと
心から言えるようになった
と言うこともできるかもしれません。

行者であるとか言いながら
葛藤的な感情やプロセスを、たぶん
私はさほど隠さずにいて

それが良いことなのかと言うと、
あまり褒められたことではない
と思います。

でも、私がバウルの行者たちといて
感銘を受けた美しさは
たとえば「常に穏やかでいる」とか
「常にポジティブでいる」とか
そういうことではなくて
(そういう方もおられますが)

怒ったり悲しんだりすることもあるし
それを変に隠したりしない
でもいやに引きずったりもしない
引きずったとして、
変にごまかしたりしない

その上で、食事などの小さな物事への
よろこびをいつも認識していて
歌舞いの中には
すべてを忘れるようなよろこびがある。

幼子のような純粋さと、
老練な叡智の、アンバランスのような
バランス。

インターネットの海に乗せるときは
それなりの慎重さが
求められるけれども

露出しすぎるではなく
かと言って変に作り物として
提示するのではなく

適度なありのままを、
泥ぐらいはある程度払ったかたちで
お伝えできたらいいのかなと
思っている次第でございます。

そして、共有できる皆さまが
こうしていてくださることに
改めて感謝を。

このところ思い出させられているのは
「私の」仕事なんてものは存在しなく
ただ世界の仕事があり
私は爪弾かれる琴に過ぎない。

そのような自覚を
堅固に持つならば
以前に書いた、
「未来の自分のビジョン」
なんてものも、
やっぱりいらないのかもしれません。

未来が見えないと言うのは、
結局のところ、
現在が見えていない言い訳に過ぎない、
ごまかしなのかもしれません。

この世はマーヤー(まやかし)だと
そういえば最初から言われていたなと
その意味が少し、
見えてきたような気もします。

あとたぶん、これはもう
性質の問題だと思うのですが

私はやっぱり、
未来をみ続けるということは
向いていない気がします。

いまをいかに味わうかが
私には満たされることなので
その意味で、行や稽古に
何度でも戻ってくるし、
それが私の生きる中心であるべきなのだと
改めて思うようになりました。

– – – – – –

ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

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