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あわいである芸能〜わたしの定義として

芸能とは、身体を使った表現の全て。
舞い、歌い、演じる事。
より原義に遡れば、
ほとんど「教養」に近い意味にもなるようですが、
ここでは大体、基本的には
身体表現とその周辺の事柄に絞って
「芸能」と呼びます。

だからいわゆる「芸能界」「芸能人」の事ではないので
この頃日本でも人気が出始めてきた
インド映画のスターや歌手の話は、
ほとんど出て来ません。

そして、私は芸能を
ここでは敢えて、「娯楽から発するものではない」ものとして
定義したいと思います。

今でもそうですが、「芸能」とは、踊る、舞う、歌うことです。その極致は、一口で言えば神々の世界と交流し、「狂う」状態に入ることです。精神が通常の状態ではなくなってしまうわけです。日常を忘れ、神のごとく非日常の世界に入る、忘我の境地。これが芸能の究極です。..

…古代では、神を怒らせると暴風雨や大地震が起きると信じられていたのです。… 豊作も飢饉も自然災害も神様の気持ち次第ですから、神に祈ったり感謝したりすることが非常に重要です。

この時、祈りや願いを通じて神様と交流する人を「シャーマン」といいます。「シャーマン」は自ら恍惚のトランス状態に入り、通常のヒトとしての人格を放棄して、神や精霊と交わり、お告げを受けます。病気の治療もおこないました。このような原初的な共同体の祈り(祭祀)や感謝(祭礼)における呪術的儀式が芸能の原点なのです。

——沖浦和光(太字強調は著者による)
(2009, Retreived 8th October 2019)

この定義には異論もあるかと思いますが、
まずはこうした視点を提示するところから
始めたいのです。

祈り的な芸能が
結果的に、娯楽も兼ね備える
事は充分にありますが
私が常に惹かれ、そして
ここで扱いたいのは
「娯楽から発するものではない」芸能です。

世界中で多くの芸能は
聖性(清らかで純粋なこと)と
穢性(汚れていること)の
両義性(2つの性質を併せ持つ事)を持っている、
あるいは持つようになります。

たとえば、聖なる存在とされていた踊り手が
少し時代が降ると、卑しい存在として蔑まれたり
あるいは、普段は蔑まれている人が
祭の間だけ、神の依代として拝まれたり。

より純粋で尊ばれるばかりの
より原初に近いような行為であれば
むしろ、芸能と呼ぶには
躊躇われる気もします。
このあたりが、精神性とアートの
複雑な関係にも繋がっているように思われます。

私自身、自分自身を
アーティストだとは呼びたくない
気持ちが今もあり
自分の取り組んでいる事が
アートと呼ばれてしまう事に
戸惑いもあります。

しかし、現代というこの時代では
そのカテゴリーからまずは
始める必要があるようだと
ようやく受け入れられるようになりました。

祈りと娯楽が不可分だった時代から
今は、その二つのあわいから
何かいにしえで永遠であるものに
目を凝らして触れていくような
今はそんな時代だと思います。

芸能はたぶん、そのあわいにあります。

そのあわいへのアクセス
その感覚を、私はインドから学びました。
幼い頃古代日本に憧れた私が、
インドを通してようやく
現代の日本からアクセスできる
その場所に何とか辿り着いて来ました。

できればこのブログで紹介する事は
どれも、そこへのアクセスを
少しでも助けるものであればいいなと
願います。

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