🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

プラティヤーハーラについて

プラティヤーハーラ?

ヨーガ八支則の五番目にあたり
「感覚のコントロール」などとも
訳される、プラティヤーハーラ。

プラティは「反」的な意味合いがあり、
アーハーラ「取る」と合わさり、
Withdrawal of the senses、
感覚を対象から引き揚げること
的な意味、と説明されます。

これがおそらくスタンダードな説明で、
最初に読んだときに、たしか
そのときちょうど六根清浄のことを考えていて
「目に諸々のけがれを見て
心に諸々のけがれを見ず」
と似ているな、と思ったことを覚えています。

ただもう一歩踏み込んだところになると、
けっこう書かれていることがマチマチだったりして
よく分からないな、となりました。

そもそも私が
プラティヤーハーラについて調べ出したのは
師匠に、
あなたはもうプラーナーヤーマとか
ハタヨーガの肉体的なところは
大体できるんだから
次はプラティヤーハーラに取り組みなさい
と言われたからです。

(言われなかったらずーっと
スルーしたままだったと思います)

プラティヤーハーラは分かる?
と言われて首を振ったら、
「後で自分で検索して調べなさい」
と……(笑)

それで調べても、
分かったような分からないような感じ
だったのですが
何かの折に、
目に入るすべてを自分として受け取ることだ」
と言われ、その言葉が強く残りました。

それもしばらく忘れていましたが、
自然と取り組まざるを得ない流れが来まして、
師匠の言葉というのは大体、そういうものです。

以前、内観について書いたときに
それ(内観)が
私にとってのプラティヤーハーラだと
書いたのですが

内観について:内向きと外向きの話

それについて質問をいただいて、
お答えしているうちに
ちょっと今の自分の理解が整理されたので
今の私にとっての
プラティヤーハーラ、について
書いてみようと思いました。

内観とプラティヤーハーラ?

「内向きも外向きも無い」内観
という文脈で
プラティヤーハーラと呼んだのは

前出の、
「目に入るすべてを自分として受け取ることだ」
という師匠の言葉をベースにしています。

それをベースに、
向き合わざるを得ない大波が来たときに
取り組んでいって導かれていった
私なりのプラティヤーハーラの解釈というのは
以下のようなものです。

プラティは「毎」という意味合いにもなり
アーハーラを「食物」「恩寵」という意味に取るなら
すべてを恩寵とすること、
すべてを学びとすること、
という解釈もできるのではないかな、

と、これは私が勝手に思っています。

すべてを他者ではなく
自分自身であると
腹を括って受け入れて取り組んだときに
起こることは、

外界で起こることに
反射して起こる反応に支配されず、
内界で起こることも
それだけが自分だとは過信しないことになるので

それを、結果的に
「対象から感覚を引き揚げる」
と呼ぶこともできなくは無いような気がします。

(その過程は、私の場合は
大波嵐のサイクロンでしたし
何度再建してもまた襲われる
賽の河原の石積みのようでしたが。
……不謹慎なたとえで申し訳ありません。
当人としてはこういう実感でした)

コントロールとは

よくヨーガ系の英訳で
制御系の言葉が使われて、
確かにAyAmaとか引き締める感あるし、
nirodhaも引き抜く感あるのですが、

それも表現の問題で、
調えるとか、道をひらく/調えるとかいう
言い方もできると思っています。

人によってしっくりいく言葉は
違うと思いますが、私の場合は
コントロールとか無理だわ
という結論にしかならない(笑)ので、
こういう取り組み方や表現になる、
というところはあるのかな。
という感じでございます。

支配したいからどうにかしようとする
のではなく、
少なくとも私の場合は、
向き合わざるを得ない波がやって来たから
ただ、向き合うしかなかった。

そこで争おうとするのは
ただ調子を悪くし、ときには
体調もガッツリ崩すだけだった。

馬の軛?

ヨーガの語幹、yujの語源は
「馬に軛をつける」とも言われますが

馬の手綱を引き締めると言ったって、
乱暴に引いたって
暴れるか全く動かなくなるか、でしょう。
コントロールする=暴君になる、独裁者になる、
ということではないはずです。

個人的には、そもそも
(ヴェーダを最初に詠った、おそらく)
遊牧騎馬民族にとっての
「軛をつける」って
私たちが印象で想像するものとは
全く違うのではないかな、と思っていて、

そのうちモンゴルの専門家と
話してみたい話なのですが。
「心のコントロール」という現代語も
ミスリード的ではないかな、
という気がしています。

オーストラリア時代の合気道の先輩が、
馬との関係に悩んで、
良くしたくて合気道を始めた人だったんです。
私も何度か彼女の馬に乗せていただきました。
だからかな、そういうことを考えます。

たとえば矛盾をも包むことで
結果的に矛盾が無くなってしまうような
(矛盾が矛盾でなくなる、
それ自体が矛盾という認識や概念でなくなる)。

それはたぶん、心が馬だとして、
その馬と特別な関係とかいう意識?すら
消え失せるのではないでしょうか、
たぶん、理想的には。
想像の域を出ませんが、
だからサハジャや「あるがまま」と言うのではないかしら。

十牛図で、
あんなに追い求めていた牛が
いなくなる/意識に上らなくなる、
というところはそうなのかな〜と、
思ったりするわけです。
(十牛図も漢詩から勉強中ですが)

バウルのうたで
私を神の操り人形にしてください、
と言うとき、
本当に求めてそうなるのであれば、
それはたぶん初めて
本当の自律になる、ということで、

プラティヤーハーラで分かるのは
己の価値判断の、脆さと根拠の無さかな、と。
その先にしか私(という鏡の源)はいない。

でもそれは私を否定するというよりは、
ぜんぶの私を目をかっぴらいて見つめると
なんか結果的にそう見えるようなこともある
ということです。おそらく。

バウルの場合は、そこに立ち現れる
私の奥底であり向こう側でもある
内なる存在の根源を
「モネル・マヌシュ 心の人」
と言ったり、クリシュナと呼んだりする。

無私が愛なのは、
私をすべて受け入れているからで、
私をすべて受け入れているからこそ
世界をすべて受け入れているし、
そこに私が無いとも言える、のかと思います。

私という現象に笑うしかない時、
それは私でも私でないとも言え、
逆にどうしようもない私という現象が
起こっているだけとも言える……
のだと思います。

そしてそれを現実に生きることを、
私たちは師=グルから
生身の人間として学ぶのです。

元絵はThe Fitzwilliam Museum収蔵のカングラ派1820年の作品。衣装を交換しているラーダーとクリシュナの画、かわいらしすぎて緩く模写しました。

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