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「この身体の中に全てがある」神秘主義について

「神秘主義」と呼ぶけれど

「この身体の中に全てがある」
という理解であったり
そう信じる事が
神秘主義である、と思っています。

あるいは、宗教的な文脈で言えば、
神は外側ではなく内側にいる
という理解。

英語のmysticismの日本語として「神秘主義」が使われていますが、
少しばかり誤解を生みやすいというか、
それこそ「神秘化」されやすい
言葉だな、と思っています。

実際、いわゆるトランスとかエクスタシーの体験と
強い結びつきがあるので、
間違いという事は無いのでしょうが。

ギリシア語のμύω múō「閉じる」「隠す」に由来するそうで、
内観的な、内側に向かう性質
その事からも伺えます。

とはいえ、
もっと根本的には、
私たちはどこまで、
自分の身体を把握しているのか?
というところに通じるように思われます。

どこまで自分の身体を把握しているか

少し、立ち止まって
自分の身体の形を
立体的に、どこまで認識できているか
感知しようとしてみて下さい。

腹の前と後ろ、
胸と背中、外側と内側
首のかたち
足の甲、足の裏。

ちゃんと立体的に、
重量的に
ごく自然な体感として
認識できているでしょうか。

……この問いに
本当に「はい」と答えられるのは、
よほどの何らかの達人だけである
というのが、私の理解です。

追究すればするほど、身体とは
その把握のできなさに
唖然とするものです。

つまり神秘主義とは、
その身体の内側に潜りに潜っていく
という事でもあると
私は思っています。

身体の秘義をうたう詩

たとえば、このようなバウルのうたがあります。

この美しい宮殿の
造り主が、その建物の中にいる
心よ
この家の、骨の柱に皮膚の天井
そしてそれを繋ぐものの
何と美しいことか

八つの部屋に、九つの扉
十八の交差点に、
十八の人
この家の中で、
太陽と月が
煌々と輝き続ける

扉ごとに門番がいて
都には交番がある
その長官は智慧の王子
全てを決めるのは
ただ彼の仕事

風に満たされた部屋べやを
行き来するかの人を
捉えるのは至難のわざ
二音の真言を唱えながら
中と外とを行き来する人を

あわれなサラトは言う
聴け、愚かな心よ
扉を堅く閉めて
よくよく中を探しなさい
もしその人を
つかまえる事ができたなら
生死を超えるだろう

(サラトのうた)

バウルの言葉で家や宮殿は
ほとんどの場合、
人間の身体を表しています。

一見すると、
何かとても
ただイメージで遊んでいる、
思考で遊んで
言葉で煙に巻いているような
印象すら受けるかもしれません。

しかし身体の体験を追究してきて
感じるのは、
これは本当に、実際に
行者である詩人の体験を
真摯に表現したものである
という事です。

本当の体感は、
(その体感をある一言で名付けてしまう場合を除けば)
そう簡単に、日常の語彙では
表せないもの。

なぜ師の存在が必須とされるのか

神秘主義に属する詩は
多く師や神に
狂信的に服従するような
印象を与えるものも
少なくありません。

しかしそれすらも
この人生の荒波を乗り切るために
必要な過程を、
ある種の表現方法で
あらわしているのです。

師の存在が大切とされるのは
まさにこの体感、体験の部分が
実際の関わりを通してしか
伝ええないものであり
師の存在なしに体得したと信じ込み
主張する事ほど、
危うい事は無いからです。

宗教を超越した激情のスーフィー詩人カビール

密教であった神秘主義は伝えられるものなのか

全てを、ただ存在するこの身体に
委ねながら
その奥深さを、更に更にと
追究する事をやめない事。

それが神秘主義の本当であり
様々な形式や表現方法を取れど
ひと繋がりのものとして理解される
所以だと思っています。

私もバウルの詩をうたい
歌舞いをしながら
身体を追究するほどに、
詩の奥深さに
何度も何度も、出会います。

第一印象や、取り組んでいる人でさえ
表面的な理解で
常に誤解される危険に晒されている
そういうものだからこそ、
多くの場所で神秘主義は秘儀であり
密教だったのだと思います。

私自身、まだまだ未熟な理解しかできておらず
これを一般的に伝える事は可能なのか
そもそもそうする意味はあるのか
常に自問しながら、このようなものを書いています。

歌舞いの公演や、画の展示活動をしているのは、
それへの私なりの答えです。

言葉や論理では思考に留まりがちなものも
いわゆる芸術の形を通してなら
もう少し実感のあるものとして
意義のあるものとして伝わるのではないか
思いあぐねながら。

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