🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

なぜ公演をするのか

人前で何かしら
公演をする者なら、
おそらく一度ならず

「なんでこんな事やってるんだろう?」

と立ち止まり、
思い悩むのではないでしょうか。

私も(割とよく)あります。

始めた時

私の場合は、
大義名分というか、
まず2016年の末
師匠に、

これからは、公演をする事でしか
成長していけないと思う
と言われ公演を許可された、
という事があります。

そして、2018年にその師匠
パルバティ・バウルの
来日公演ツアーを控えていたので

2017年から2018年にかけては、
ひたすらその準備・
プロモーションに明け暮れました。

人前でバウルの歌舞をする事は
バウルについて、
パルバティ・バウルについて
知ってもらうために、

ただ話すよりも、
ずっと効果的な事だ
という思いがあり
ちょうどうまくはたらきました。

その当時は、
その招聘ツアーの準備で
正直、記憶もちょっと
曖昧なぐらいの大わらわの
大がむしゃらだったので

(もう二度と
フライヤーを作ったり配ったり
したくないと当時思いました。
今もちょっと引きずっています)

そういう意味では、
悩む暇もなかったし、
そんな悠長な事も
言っていられない状況でした。

続けていくうち

なので、私の場合は
最初は、明確な理由・目的があったのです。

ツアーが終わってからは、
数ヶ月はお休みして
お休みしたら、
また公演をしたいな
という気持ちが
自然と湧いてきました。

そうは言っても、
昨年2019年も、特に前半は
比較的ゆっくりと過ごしたと思います。

(海外からの招聘ツアーを
主催した方なら分かるのではないか…
と思われるのですが
私はツアーから、
まともに気力回復するのに
一年はかかりました…)

なのでそこまで、
「なぜ公演するのか問題」
が喫緊の課題として
浮かび上がる事は無かったように
記憶しています。
(手帳を確認したら、
違う事が発覚する可能性もありますが)

それからまたインドに行って
帰って来て、
さあ本格的に活動開始するか〜
という矢先の2020年、
ご存知の通り、
パンデミック事案となりました。

公演もそうですが、
画の展示が潰れた事が、
何よりも私にはダメージが
大きかったです。

その状況の中で、
私は定期的な公演を
敢えて設定していく事を
選びました

こういう状況だからこそ、
生の体験の機会が無ければ
苦しい人たちに
機会を提供できる存在になりたいし
そうで無ければ意味が無い、
と強く感じたからです。

その役割は、
ある程度は果たせたのではないか
と思っています。

いらっしゃる人数は、
多いとは言えませんが、
こういう状況ですし、
お互いにその方が気楽です。
(だから全く
利益目的にはなりえていません)

しかし定期的に続けていくと、
「公演する事」自体は
ある意味当たり前になり、

一時期よりも、
社会的に公演一般の数自体が
増え、回復してきたので
次の問題が出てきました。

「私、誰もが感動するような
実力とか無いし、というか
まだまだ下手な事は充分
自覚しているし、
いやその分毎回成長して
変化していく楽しみとか
あるかもしれないけど……

わざわざ私がやる意味、
そこに人が来る価値って
何だろう

と沈む瞬間が、
それまでだったら
よぎっては去っていく
程度だったのが

長く留まるように
なってきたのです。

バウル公演の意義

バウルの、公演をする意味
立ち返ると、

バウルの場合は、
本質的には、自分の修行なので
人前での公演を
する必要は無いと言えば、
無い訳です。

いわゆる大道芸人と区別されるのは
真理を湛えたうたを
人々に共有する
その事で喜捨を受け取ったり、
受け取らなかったりする、
そういう「」な訳です。

元々は村や
近代では電車などでも
そういった「マドゥコリ」(托鉢)
を行ってきましたが

現代の貨幣経済、
資本主義社会では
農村の、バウルを支える力が低下し
いかに本質を失わないまま
この現代に適応していけるか
が、問われています

…という文脈の中で、
舞台公演などが出てきます。

さて私自身は、外国から行って
バウルを学んでいる身なので、
立場としてはより複雑というか
単純では無くなります。

だって私が、たとえば
近所の家を訪ねて行って
うたを聞かせようとすれば、
下手すれば通報されますし
それこそ新興宗教みたいだし

ではストリートで歌えばよいのか…
と言えば
いらしていただいた方なら
分かるかと思いますが、
そういう性質のうたではないし

それを目指すのなら、
より「音楽」にしていくとか
そういう方向の努力を
していかないといけない。

(ストリートで〜というのは
たまーに言われるのですが、
それこそ下手したら新興宗教に
見えそうだな……と思っています。
もしやるとしたら、
ドタラ(撥弦楽器)のみで歌無し、
とかが無難でしょうね……)

この頃は、バウルを扱った本や
映画などの影響で
今年に入って、また一層
バウル自体の知名度が上がった
と感じています。
(まだまだ一部とはいえ)

そういう中だからこそ、
私の活動の意味がある
という反面、
「なんか、私のやってる事
意味あるかな…?」
という瞬間も訪れます。

いくら、私が
人生をかけて取り組んでいても

誰もが一目で、あるいは
声を聴いた瞬間に
納得できる程のものを
まだ持っていない事は
私が一番自覚しているのだから。

キャッチーな言葉や
分かりやすい説明ができる人の方が
よほど世の中にもバウルにも
貢献しているんじゃないの?
という気になる。

公演でしかできない成長

それでもね、
最初に師匠に言われたように

公演する事でしか
起こりえない成長
というものがあります。

一度の公演の後に起こる変化は
説明しがたいぐらい、大きいです。

それが何故なのかというのは、
意外なほど説明がしづらい。

人前に立つ「本番」にしかない
集中力の問題かもしれない、
そこに発生する「場」による
力なのかもしれない。

確かなのは、
公演でしか起こり得ない
引き出せない変化がある
という事です。

これは全く、
演者の都合と言えば、
その通りとしか言えません。

だからある意味では
共有する事それ自体
その過程の価値
引き受けていただくほかに無い。

変化というのは、
それだけ、理解が深まるという事。
この小さな手でも
つかめるものが、少しずつ
増えるという事であり

語る言葉、語れる言葉も
そのたびに、変わっていきます

毎回いらしていただいている方は
おそらく、その変化を
目撃しにいらしているところも
あるのかと思います。

祈りの場

公演にいらした方に
言われる事のひとつは、
観客がどうこうは
本質的には問題ではない
という事が分かった、
というような事です。

人でないものを
相手にしている
と言われる。

そう言われた時、
ちゃんと分かる人には
分かるんだな、と
ホッとするところがあります。

たぶん、私が公演で
体験として提供できるものが
あるとしたら
おそらくはそうしたものであって

私は未熟だから、
ただひとりで、
全てを捧げるための力場を
立ち上げる事ができない。

公演という機会と空間を設ける事で
他者の存在があってようやく
それは起こりうるようになる。
祈りを共有するようなもの。
少し違うけど、ある種の
儀式や祈祷に
立ち会っていただくようなもの。

おそらくは、それ自体が
価値なのでしょう。

「飽きちゃダメよ」

一番最近、公演について
師匠に言われたことは、
「これからは、その繰り返しになる。
飽きちゃダメよ」
でした。

結局のところ、
私のこのグダグダとした思索や
落ち込みも、
ただの気の迷いにしか
過ぎないのかもしれません。

どんな立派な歌手であっても、
何かしらの理由で
評価しない人はいるのだから

私がこの規模で悩む事なんて
ちゃんちゃらおかしいし
ただの暇つぶしなのかもしれません。
その自覚が無いだけで。

いずれにせよ、
バウルの修行を続けていく限り
共有する事を、
やめるつもりはありません

前に進むたびに、
それまでの自分の無知や
愚かさが身に染みて
これまで私は
何をやって来たんだろう……?
と落ち込んで

それを人に見せる意味
というものを
考えてしまうのですが

かと言って、やめる事も無いと思います。
学んでいる事を共有する事、
差し出せるものを差し出せる事は、
半人前とは言え、行者としての
私の責任だから。

2021年2月27日(土) バウル歌舞いの会 vol.6のおしらせ

パルバティ・バウルについて

村の家々をまわり歌うマドゥコリ(蜜集め)

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