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分離独立〜現在に繋がる近代インドの悲劇

8月15日、日本の終戦記念日は
インドの独立記念日でもあります。

1947年8月15日、3世紀にも渡り
植民地支配を受けてきたインドは
インド、そしてパキスタン(うち東パキスタンは現在のバングラデシュ)として
分離独立を果たしました。

ヒンドゥー教徒を多数派とするインドと
イスラーム教徒を多数派とするパキスタン。

建国の父ガンディーは、
最後まで分離独立に反対していた事で
知られていますが

この分離独立に伴って
あまりにも多くの血が流れました。

その記憶は、トラウマとして
そして国家間の政治的緊張や国境地帯の紛争として
現在まで根深く尾を引いています。

ここでは、ウィリアム・ダルリンプルによる2015年の文章”The Great Divide: The violent legacy of Indian Partition.”より、
邦訳引用とまとめを組み合わせる形で、
分離独立という悲劇について
学んでみたいと思います。

訳責はパロミタにあります。
また太字による強調も訳者によるものです。

インド・パキスタンの分離独立は、その過程で1500万人の移動と、100万人以上の死亡を引き起こした。

1947年の8月、300年ぶりにイギリスがついに去った時、このインド亜大陸は二つの独立国に分かれてしまった。ヒンドゥー教徒を多数派とするインドと、イスラーム教徒を多数派とするパキスタンである。

そこで起こったのは、人類史上最大級の移民である。数百万のイスラーム教徒が東西パキスタン(東パキスタンは今日で言うバングラデシュである)へと走り、同じだけのヒンドゥー教徒やシーク教徒が逆の道のりを目指したけれども、その内の数十万人はついにどこにも辿り着けなかった。

南アジアじゅうで、千年に渡り隣人として共存してきた共同体が互いに攻撃を始めたーー一方にはヒンドゥーとシーク、片一方にはイスラーム。全く想像されえなかった、史上他に例を見ないような虐殺が起こった。インドと東西パキスタンの国境を抱えた二つの地方、パンジャーブとベンガルでは殊に激しかった。多くの大虐殺、強制改宗、一斉誘拐、そして野蛮な性暴力。7万5000人に及ぶ女性がレイプされ、その多くは損傷や後遺症に苛まれ、あるいは家族・コミュニティから追放された。

Nisid Hajariが分離独立とその後について口述歴史を書いた「Midnight’s Furies」 (Houghton Mifflin Harcourt)によれば、「殺人者の集団が村じゅうに火を付け、男や子ども、そして老人を死ぬまで滅多斬りにし、若い女性は犯すために連れ去られた。ナチスの強制収容所を見た事のあるイギリス兵やジャーナリスト達は、それよりもインド分離独立に伴った残虐性の方がもっと酷かったと語った。妊婦は乳房を切り落とされ、胎児は腹から引きずり出された。赤子は文字通り串焼きになり転がっていた。

1948年に大移動が完了するまでに、
1500万人以上が移住を余儀なくされ、
100〜200万人が亡くなったと言われています。

分離独立は、インド亜大陸の人間の
現代のアイデンティティにとって
とても大きな位置を占めています。

第二次世界大戦の後、イギリスには単純にこの植民地最大地区を御するだけの経済的余力が無く、インドからの退去は乱雑で急な間に合わせ仕事だった。それでも引き揚げる植民地支配者としては、ある面においては成功を収めた。植民地支配の期間を通して暴動や反乱、暴力的抑圧が続いていたというのに、イギリス軍がこの国を去る時には一つの銃声も鳴らず、たった七名の犠牲で済んだのだ。その後に続く血濡れた悲劇と同じぐらいには、予測されなかった事だった。

イスラームとヒンドゥーは
インドにおいて、あまりにも長い事
とても深いレベルで混ざり合い、
共存してきましたが
20世紀のほんの数十年の間に
もはや修復不可能なほどに
二つの宗教が平和に共存する事を
誰もが考えられもしないようになっていました。

なぜこのような事態になってしまったのかについては
多くの研究や文献があり
今も手遅れになる前にと、
多くの聞き取り調査がなされています。

イスラームの最初のインド進出は11世紀、
ペルシャ系トルコ人による
1021年のラホール制圧でした。
1192年には、中央アフガニスタンから来た
この帝国はデリーを制圧し、
やがて亜大陸じゅうを席巻します。

しかし当時のサンスクリット文献を見る限り、
彼らはイスラームというよりも
「トルコ人」と認識されていました。

この侵攻の過程では
多くのヒンドゥーや仏教遺跡が破壊されましたが
数世紀の内に
インド・イスラームとも言える文明が出現します。
言語もアラブやペルシャ、トルコ語などの
影響を受けました。

最終的に、南アジアの人口の5分の1がイスラームを自認するようになった。スーフィー(イスラーム)の神秘主義者達はイスラームの普及に寄与したと言われているが、ヒンドゥーの経典を神聖視した。中にはヒンドゥー行者達のヨーガ行を取り入れ、身体に灰を塗りたくったり、祈祷しながら逆さまに吊るされたりする者達もいた。村々の民俗文化はどちらの信仰も一つのものとして取り入れた。ヒンドゥーの人もスーフィー導師の墓所を訪ねたし、イスラームの人もヒンドゥー寺院にお供物を捧げた。スーフィーは特にパンジャーブとベンガル地方に多く、農民達の間に大規模な改宗が起こったーー数世紀後に最も凄惨な暴力の舞台となったのはこれらの地方である。

デリーのスルタンがヴィシュヌ神の化身だと見なされたり、
ムガル帝国の皇子が
バガヴァッド・ギーターのペルシャ語訳を作成したり、
二つの宗教について
「二つの海の交わり」という書籍を記したりしています。

どのスルタンも、このように
宗教的に寛容だったという訳ではありませんが、
ムガル帝国最後の王は
ヒンドゥーとイスラームは
「本質を共有する」と記しました。

19世期のインドにおいて、
宗教はけして主な括りでは無く
それよりも民族的・文化的な括りの方が
よほど重要で、現実的でした。

20世期半ばに起こった分離独立と
それに伴う数多の悲劇について
大体においては
イギリスの分割統治に
その責任が求められますが、

一方で、
分割統治から分離独立までの発展は
偶発的な結果論であり
たとえば1940年の時点でも
まだ分離独立は避けられたはずだ
とも言われます。

たとえばイギリスの歴史家Patrick Frenchは、著書「自由か死か」の中で、当時の政治家たち、殊にイスラーム連合指導者のムハンマド・アリー・ジンナーと、国民会議派を率いたモハンダス・ガンディーとジャワハルラール・ネルーという3人の個人的な確執がどれほどの影響を与えたかを論じている。三人とも教育の少なくとも一部を英国で受けた英国系の弁護士だった。ジンナーもガンディーもグジャラート人であったから、共闘する未来もあり得たかもしれない。しかし1940年代前半には、二人の関係性はあまりにも悪化し、同じ部屋に座るのも拒む程だった。

この話の焦点はジンナーという男の人間性にある。ジンナーは、インド愛国者にとっては完全な悪役であり、パキスタン人にとっては国家の父である。Frenchが指摘するように、「どちらの陣営も彼を実際の、生きた人間として扱おうとはしていない。パキスタンにおいても、彼はまじめなイスラームの服装をしてお札に載っているというだけだ」。Hajariの研究の良い点の一つは、このジンナーに新たな光を当てている事だ。彼は確かに頑固で、けして意思を曲げない弁士であり、冷ややかな性格の人間であったらしい。国民会議派の政治家サロージニー・ナイドゥは「彼がいる時は毛皮のコートを着なければいけなかった」と冗談を言った程である。

しかしジンナーは様々な点において、パキスタンというイスラーム共和国の驚くべき設計者だった。全くの世俗主義者で、ウィスキーを嗜み、モスクにはほとんど行かず、髭剃りを欠かさず、お洒落で、サビル・ロウ(イギリスの高級紳士服)のスーツと絹のネクタイを好んだ。特筆すべき事は、彼が結婚相手として選んだのはイスラームの娘では無く、ゾロアスター教徒のビジネスマンの美しい娘だった。彼女は肌の露出の多いサリーの着こなしで有名で、ある時、投票日に夫にハム(つまり豚肉の)サンドウィッチを持って来た事でも知られていた

ジンナーは南アジアの政治に宗教を持ち込もうなどという気持ちは毛頭無く、むしろガンディーが政治的議論に宗教的精神性を持ち込んだ事に大きく反発した。一度など、ある植民地総督が記録しているところによると、「彼のやり方で政治と宗教を混合させる事は犯罪だ」と言った。そうする事はあらゆる宗教の狂信者達を力づけるだけだ、と。実際、彼の政治活動の初期、第一次世界大戦の頃は、イスラーム連合と国民会議派を結び合わせる事に心を砕いていた。「わがイスラームの友人達に言おう、恐れるな!」そしてヒンドゥー支配を「ボギーのようなもの、恐怖を煽るために敵に見せられているのだ、協力と一致団結から遠ざけるために。しかし協力と一致団結こそが、自治政府の確立に必要不可欠なものだ」と説明した。1916年時点でのジンナーはどちらの政党にも属していて、イギリス側に内容を共にする要求をしたラクナウ条約などに貢献した。「ヒンドゥー・イスラーム団結の使者」と呼ばれていたのだ。

しかしその後、ガンディーとネルーが台頭。
1920年にはガンディーを
「マハートマ(偉大なる魂)」という称号では無く
「ミスター」と呼び続けた事で
国民会議派からブーイングを受けます。

そして1940年にはジンナーは
イスラーム連合として
少数派イスラーム人口のために
別個の国家を要求するようになります。
これは、彼がかつて反対した立場でした。

そして実際にパキスタンの成立が
確約された後も、
この新しい国家は信教の自由を約束する
と主張しました。

1947年8月、パキスタン憲法制定会議の最初のスピーチで、「あなたがどの宗教、カースト、民族に属していようと、国家にとっては関係が無い」と表明したが、時既に遅し。この時にはヒンドゥーとイスラームの間の暴力の連鎖は、誰にも止められないところまで加速していた。

ヒンドゥーとイスラームの敵対は、第二次世界大戦のさなかの混乱に始まった。1942年、日本軍がシンガポールとラングーンを制圧し、ビルマを侵攻しインドに向かっていた時、国民会議派は市民的不服従の運動を開始した。クイット・インディア運動である。ガンディーやネルーを含めたその指導者達は逮捕された。彼らが獄中にいる間、ジンナーはイギリスの忠実な同盟者を自称し、ヒンドゥー支配に対抗しイスラーム側の有利に働くように意見をまとめた。対戦が終わって国民会議派が解放されると、ネルーはジンナーを「文明的な心を欠く人間の明らかな例」だと考え、ガンディーは彼を「狂人」「邪悪の天才」と呼んだ。

この時から、市民レベルでの
宗教間の軋轢は増すようになり、
それまでの隣人が追い出され
隔離されて暮らすようになりました。
地元の政治家もその動きを後押し
暴力的な動きが正当化されていきました。

最初の宗教的虐殺が起きたのは、
1946年、コルカタでの事です。
考えうる限りの残虐な方法で
5000人のイスラームの人々が
殺されました。

その前年にナチスの強制収容所の開放を
取材していたアメリカのフォトジャーナリスト
Margaret Bourke-Whiteは、
コルカタの市街は「ブーヘンヴァルト(強制収容所の一つ)のようだった」
と記しました。

暴動が広がり、死者の数が跳ね上がると
国民会議派の指導者達も
分離独立は避けられないと
受け入れざるを得なくなりました。

イギリスも、これでもはや
植民地を御する力が残っていない事を
目の当たりにし、撤退を速めました。

1947年2月20日の午後、イギリス首相のクレメント・アトリーはイギリス議会において、イギリスのインド支配は「1948年6月までに」終わる、と発表した。その時までにネルーとジンナーが和解した場合、権限は「英領インドの何らかの中央政府」に移譲され、もし和解が果たされなかった場合には「インドの人民にとって最も実際的かつ利益あると見られる方法で」移譲される、とした。

その翌月には
できるだけ早い権限移譲を
使命とする最後の総督
マウントバッテンが
デリーにやって来ました。

ジンナーとの数度に渡る会合の後、
このままでは市民紛争の
調停をする羽目になる、
と考えるようになった新総督は
全政党に分離独立は避けられないと
合意を取り付け

6月には、誰もの予測を裏切り、
同じ年の8月15日に権限移譲を行う
と発表しました。

当初言われていたよりも
10ヶ月も早く、
猶予は2ヶ月しかありません。

混乱は拍車がかかり、
国境さえ、発表されたのは
独立の2日後の事です。

総督の急な決定は、誰もが
不満を抱えるものとなりました。

新たな国家設立に成功したはずのジンナーは、割り振られた切れ端のような土地を見てーーインドの東西の先端の端っこ、インド領に阻まれて間には1,500キロ以上もの距離があるーー要求していた土地を「切り離し、切断し、蛾に喰わせたようだ」と言った。そしてパンジャーブ地方とベンガル地方をそれぞれ分断させる事は「未来の深刻な問題の種を植える事になる」と警告した。

1947年8月14日の夜、総督邸でマウントバッテンとその妻はボブ・ホープの映画「My Favorite Brunette」を観賞していた。少し距離を置いたライシナの丘の麓では、インド憲法制定会議でネルーが立ち上がり、有名なスピーチを打ち上げた。「この真夜中、世界中が眠っているこの時に、インドは命と自由に目覚めるのだ」。

しかしよく護衛されたニュー・デリーの居留地の外では恐怖が迫っていた。その同じ夜、ラホールの最後のイギリス役人たちが駅に向かった時、血まみれで死体に溢れる道を何とか通り抜けなければならなかった。駅のホームでは、駅員達が血の海をホースの水で洗い流そうとしていた。数時間前、市内から逃げようとしたヒンドゥーの人々が列車を待っている間、イスラームの暴徒に襲われ虐殺されたのだった。ボンベイ・エクスプレスの鉄道がラホールを出発して南に向かうと、役人たちはパンジャーブが火の海となり、どの村からも火の手が上がっているのを見た。

特にパンジャーブにおいてその後起こった事は、20世紀人類最大の悲劇のひとつである。Hajariによると、「暴動から逃げ、全て失った難民の歩く列は50マイル(約80キロメートル)以上続いた。農民たちが疲れ果てヨロヨロと歩いているところを、ゲリラ兵達が道路脇の背の高い穀物草から飛び出し、羊を間引くように襲った。特別に手配された難民列車はパンパンに満員で、何度も待ち伏せ攻撃に遭った。国境を越える頃には葬式のような静けさで、車両扉からは血が滴り落ちている事も少なくなかった」。

ほんの数ヶ月の内に、南アジアの地理はもう取り戻せないほどに変わってしまった。1941年、のちにパキスタンの首都になるカラチは、住人の47.6パーセントがヒンドゥー教徒だった。独立インドの首都デリーでは、人口の3分の1がイスラーム教徒だった。1940年代の末には、カラチのヒンドゥーはほとんど姿を消し、デリーのイスラーム教徒は20万人が追い出された。この数ヶ月で起こった変化は、今も取り消されないまま残っている

…実は、ここまでで元記事
The Great Divide: The violent legacy of Indian Partition.”のま
だ3分の2ほどです。

この後は主に分離独立後のトラウマについて
書かれていますが、ここでは
ひとまず、省略とさせていただきます。

ウィリアム・ダルリンプルは
私は非常に好きな作家なのですが
あくまで一人のノンフィクション作家による文章で、
必ずしも歴史の真実を記しているとは限らない事は
念頭に置いていただければと思います。

このインド分離独立がどれほど
現代のインドのトラウマになっているか
私は全く分かっていなかったと
この頃になって痛感しています。

インドの芸能や精神性について語る上でも、
知らずにいるべきではないと
強く感じるので
一つの入り口として、
こうしてまとめさせていただきました。

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