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バクティと信頼、信じること

バクティ、という言葉を訳す時
「捧げること」「献身」と訳したり
ただ「愛」と訳すこともあれば
「供儀信仰」と訳すこともあるのですが

最近になって、バクティには
信頼すること、あるいは
信じること というのも
とても大切な要素なのだな
と思い至るようになり

そういえば、バクティの訳のひとつに
「信愛」というのがあるのですが
ひょっとしてこれには
この「信じる」要素が
初めから想定され、含まれているのか?
とちょっと感動したのですが

この「信愛」を調べてみると

1. 《名・ス他》信用してかわいがること。
2. 《名》信仰と愛。

Oxford Languages

と出てきます。

どうも、私が思ったものとは
ちょっと違うようです。

私はこのところ、
アトピーの炎症大爆発にはじまり
とても具合が悪く、
それで一時期はありとあらゆる
モチベーションを失い、
思考力がとにかく低下して
なーんにもやる気が出ないような状態で

ずっと好きだったこと、
人生をかけてきたことにも
まるで関心が無くなってしまうようで
それは結構な恐怖というか
一種のパニックに近いものが
あったのですが

そういう自分の状態を
観察しつつ、
自らと対話しつつ
好きや関心を失うということは
拠り所を失うようなもので

そういう時には、
自分に関心を向けることさえ
億劫になるものです。

(少し補足すると、
私の症状が酷かったのは、
全身の炎症に加えて、
ほぼひと月に渡り、
夜にほぼ全く寝られなかったからです)

それでも生き続けること、
生活を続けること、
何かしらの行動を続けることは
それだけでも、
何かしらの信頼が無ければ
辛いし、難しい。

闘病中の方々というのは
すべからく偉い、凄いな、
とつくづく思いました。
思考力や気力を根こそぎ奪うような
肉体の力の低下に耐えて
それでも生きる希望を
持ち続けるというのは。

どんな悪い時にも、終わりが来る。
必ず、どうにかなる。
そう信じることはそれだけでも力だし、
とても難しいことであり、
しかしそうするほかないものでもある
と痛感しました。

どんなに修行を続けても、
稽古を続けても、
何も目立った成果は出ないのかもしれない。
それでもその一瞬一瞬を味わい、
楽しむことこそが修行の本質とも言えます。

その「味わい、楽しむ」ことは
即興的な、瞬間瞬間の生成である
と同時に、
とても強い、「信じるという行」
なのだなと、思うようになりました。

「信じる」という感覚が
長らく、よく分かっていなかったのですが
(私にとってほとんどのものは、
「分かる/分からない」
「期待はしない」というぐらいの
ものだったので)

だからこそ、
見通せない、不確定な全ての中で
「それでも、信じる」ことの
難しさを噛み締めていますし
だけどそれ自体が力であり、
あるいはひょっとしたら
あらゆることの本質に
とても近いことなのかもしれない、
と思ったりします。

どんなに惨めで、滑稽な
道化になるかもしれなくても
それでも、信じること、
その勇気を持ち続けること。

不幸になっている暇なんて無い、
幸せでいるという不断の決断が
必要なのだ、と言われた
女性行者がいました。

バクティは、
いわゆるところの「神さま」への
(あるいは他の何がしかへの)
愛であり、献身であり
そしてそこには、建前ではない
欺瞞ではない、純粋な、
本当に純粋な「信じること」
が泰然とあるのではないか、
と今、思っています。

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