天竺画展オンライン、開催中。

うつを抜けた日

うつは完治しないという話

「あ、ヤバい、これ完全にうつ症状だ」
となった時、
その時私は
自分を中心にした
プロジェクトに
取り組んでいて

どうしても、
休む訳にはいきませんでした。

「これが終わるまでは
どうにもなる訳にはいかない」
という状況でもありました。

薬を取る事も考えましたが、
友人で、薬が合わなかった人の話など
聞いていたので、
(文字が一時的に読めなくなったなど)

それこそ仕事にならなかったら
本末転倒なので
踏み切れませんでした。

時々高麗人参の漢方を摂って、
テンションが高くなったり、
鼓動が上がりすぎて
心臓が痛くなったりしながら
ギリギリで乗り切りつつ

色々調べて、
パーンとお金を投じて
(使えるお金があって本当に幸運でした)
2日間の集中セミナーのようなものに行き

とりあえず、「寛解」という診断が
出るところまでは
力技で持って行きました。

検索すると「宗教」というワードが
サジェストされるような所でしたが
「これなら効くはず」と感じて
本気で取り組んだら
とりあえずの寛解まではいって
何とかプロジェクトも乗り切りました。

でもね。
うつに完治は無い、というような話も
あるように、

「ヤバい」うつ症状では無くても
その後もうつ傾向ぐらいは、
普通〜に抱えながら
暮らしていました。

「まだ生きなきゃいけないの?
マジ勘弁してください」
と毎日思いながら

少しでも辛くなくなる方法を
模索していました。

私の「うつ」は、
あくまでも軽度に留まるものであったと
思います。

だから、書く資格があるのかどうか
分からないと思って来ましたが

たぶんそういう人は
私以外にもたくさんいて
参考になる事もあるかもしれないと
書く事にしました。

他者の虚像に振り回される

先に書いておきたいのですが
私は傍目には、昔から
自分の好きな事をやって
ずいぶん自由に生きているように
見えていたと思います。

だから、
「元々、自分を生きる事が
できていたんじゃないの?」
と、言われてしまいそうなのですが

私は子どもの頃、
あまり表情が無く
思考を言葉にする習慣も無い
子どもでした。

だから、
人間として欠陥品だと
いうような感覚
割とずっとあったんです。

ある時から、笑顔を作る事を
覚えると、
「とりあえず笑っておく」癖が、
だんだん育って来ました。

良い方ではなくて、
コミュニケーションが苦手だったので
咄嗟の反応として、
とりあえず笑ってごまかして
それらしく取り繕う
癖、です。

それから、ある時から
「とりあえず頭に浮かんだ事を言う」
スキルを獲得してからは
それが反射的な
癖、になりました。

表情を作る事や、
咄嗟に言葉をひねり出す事は
私にとって、けして
自然な事ではありませんでした

後悔や
自己嫌悪に襲われて
落ち込むのは
そういう癖が出た時で、

元の自然な
自分の性質に戻りたい
割と最近まで、葛藤していました。

その意味で、
どれほど個性的で
好きな事をしているように
見えていたとしても

私もまた
他者の虚像に
振り回され

「自分を生きている」
状態な訳では
ありませんでした。

(最近は、割と自然な状態で
楽になっています。
もっとも口角だけは
上げるようにしていますが

というのは、
特に人の公演や講演では
真顔でいると怖く見えてしまい
圧迫感を与えるのは
本意ではないので。

ちなみに、
口角が上げられるようになったのは
ハタチを過ぎてからの事です。

頬の筋肉を鍛えてみたら、
偶然に。)

他者のために祈る:エゴが風船から抜けていく

ある日、
チベットのドキュメンタリー
観ました。

ある僧院と
そこに住んでいる(住んでいた)
僧侶を追ったドキュメンタリーで

ある一人の僧侶は、
どんなに難しい
先行きに不安しか無いような
状況にあっても

毎日、毎朝、
世界の、人類の
平和のために祈っていました。

その時、
「あ、私はまた
これを忘れていた
と、
他者への祈りを
思い出しました。

いつも、何かのきっかけで
他者のために祈る
という事を始めて

気がつけば
日々に紛れて
忘れているのでした。

しかし今回は、
この僧侶のあり方の印象が
鮮烈

そして実際に、その後
他者のために祈っている時
「あ、私という風船から
ガスのように充満していたエゴが
抜けていく

というような体験を
しました。

自分が救われるために
他者のために祈るというのも
本末転倒かと思われますが

この時、自分に意識が向きすぎて
エゴの自家中毒のような状態に
なっていたようで

他者のために祈るという
それだけの行為でも
私の中は、ずいぶん
風通しが良くなりました。

それをしばらく続けていた時
ある日、
「あ、私、うつ抜けてる」
と、気づいたのです。

自分の方ばかり見ているのは健康的では無い

なぜうつを抜けたのか
という理屈は、
私には分かるものではありませんが

ひとつ言える事は、
自分の方ばかり向いて
グルグルしたり
哀れんだり、嘆いたり
自分の幸せばかり願うのは
単純に、
健康的ではない
という事です。

誰かの幸せを願ったり
祈る事は
日々の運動と同じぐらい
本来、自然な事なのだと
思います。

実際、今の私は
その場に居合わせた人にとって
良い方向にいくように
と願う事が
当たり前になっていて

これも、一種の心の筋肉だな
と思います。
つまり、筋トレ(祈り)で身に着く

(祈りが筋トレなんて言うのは
怒られそうですが、これも方便というか
ケースバイケースの表現です…)

ただ、他者の虚像に
振り回される事と

心から
他者の幸せや
安寧を願う事は
違う事です。

この間、友人と話していて
二人で同意したのは

抜けてみて振り返ると、
うつはエゴだった

でも最中のあの苦しみを
知っていると
それを、
今まさに苦しんでいる人には
言えないし、
言う意味も無い。

そんな事は分かっていても
どうしようもないのが
ウツなのだから

という事で
複雑骨折を起こした状態で
元気に筋トレをする事が
無茶であるように

他者のために祈る事自体が
苦しいなら、
まずは休んだ方が良いのでしょう。

私も、このチベット僧院の
ドキュメンタリーを観たのは
半年間、色々な義務を休んで
自分のやりたい事
稽古や、製作に
集中していた時期の事です。

祈りと行動

ところで、
祈るだけで行動が伴わなければ
と、ひょっとしたら
思われるかもしれませんが

本当に祈る事は、
行動に反映されてきます。

そして実際に行動をすると、
また自然と祈りに戻ってきます。

だから、どちらからでもいいけど
どちらからでも、
始める事が良いのではないかと思います。

それこそ、ご飯を食べる前の
「いただきます」に
心を込めるところからでも。

「いただきます」には
食べられるもの、
食べ物が食べ物になるまでの
過程に関わった人々への
感謝という祈り
入っています。

たまたま入ったお店の
店員さんに
丁寧に受け答えするとか
そういうのでも
良いと思います。

それ自体、
「お仕事お疲れ様です。
ありがとうございます」
というメッセージであり
一種のお祈りになるから。

祈りから信頼へ

成長してくる中で
私は、
「他人に期待しない」
という癖
身に付けて来たようです。

だけどそれでも
生きていくという
根本的な辛さが
消えなかった

縋り付く事
本気で救われようとする事を
してみようとしていました。

この画は、まさにそういう時に
そのこころみの一つとして
描いたものです。

それは、私にとっては
この世界を信じてみる
訓練のようなもの
だったと思います。

しかし、エゴでパンパンの身では
縋りつく対象を
引き摺り下ろすような
力学に、なってしまう。

(これに耐えうる人だけが
本来の「師匠」という立場に
立つ事ができるのでしょう。

これを私の師匠は、
「神さまが師匠という椅子を用意する。
でも慢心した途端に、
椅子は取り上げられる」
と表現します。)

祈りの筋肉がついて来た時
引き摺り下ろそうとするのではない
本当の信頼と愛から
身を預けるという感覚
少しずつ、見えてきました。

世界への信頼
身に付けるためにも
他者のために祈るという行為は
鍵になるのではないかと
思います。

参考になる本

「うつヌケ」田中圭一

とても話題になった漫画、
「うつを語る事は後ろめたい事ではない」
という流れをより強化してくれた本だと思います。

「うつは心の風邪ではなく、ガンだ」
という言葉も印象的な、
入門として読むのに最適でしょう…

と、私は思うのですが、
このマンガのノリが合わない人には
読んでいて辛くなる事もあるらしいので
立ち読みや「なか見!検索」などで
確認してから入手した方が良いのかもしれません。

ただ、私が
「ウツのはずが無い」と
可能性を除外するのはやめよう、と
自分の状態と
向き合うキッカケをくれたのは
この漫画「うつヌケ」でした。

(そうでなかったら、
いずれもっと深刻な症状に
進んでいたかもしれない
と思います)

「預言者」カリール・ジブラン

私が一番オススメしたいのは、
この詩「預言者です。

ひとりの預言者が、ある町に流れ着き
そして12年の後に去る
その時に町の人々に贈った言葉。

(引用をしようと思いましたが、
どうしても、一部を切り取って
引用する事ができませんでした

レバノン出身で
アメリカで育った
カリール・ジブランが
推敲に推敲を重ねて上梓し

世界中で愛され
ジョン・レノンや
上皇后美智子さまにも
愛読されている本です。

うつも含め、HSPでも
内向型でも、自閉症スペクトラムでも
そのものズバリについて
書いてある本は、
基本的には、

「その時、安心するため」
「少しでも、共感や
理解してもらえるという
安堵を得るため」
の、対症療法だと
私個人的には、思っています。

それを必要とする時は、
それに頼りながら

もっと根本的な事は、
この「預言者」のような詩に
あると思います。

木を植えた男
も、小さな頃から好きな絵本ですが
物凄い
希望のイメージをくれます。

「気を植えた男」ジャン・ジオノ

プラユキさんの本も、
すごくオススメです。
というか、一番読みやすく
分かりやすく
誰にでも勧められるのは、
プラユキさんの本かもしれません。

「苦しまなくて、いいんだよ。」プラユキ・ナラテボー

更に、
本当に取り組むならば
身体という要素が
不可欠になると思っているのですが

それはまた、おいおい
書いていきたいと思います。

自己肯定感が低く孤独だった:心の筋トレ

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