自己肯定感が低く孤独だった:心の筋トレ

自己肯定感が低かった私

私はとても
自分に自信がある、ように見られる
人間です。

実際、自信が無い訳ではない。
でも、自己肯定感が高いかと言うと
そうではない

という時期がとても長くて、
よくある話ですが
「何がいけないんだろう?」
と、長いこと
思って来ました。

もっと言うと、
自己肯定感が欲しいのかすら
よく分かりませんでした。

毎日、「まだ生きないといけないのか」と
半ば絶望、半ば諦めながら
朝めざめて
この、眠る私を肯定しながら
気がつけば人生が終わっていないだろうか
なんて、
ボンヤリと期待していました。

今、言える事は
自己肯定感とか、孤独とか
寂しさとか

全部、実体が無い
幻想だった
という事ですが

それだけだと
身も蓋も希望も無い話
みたいなので

(私も師匠に
弱く傷ついている暇なんて無い!
と怒られるたびに
自分を全部否定されたように感じて
途方に暮れていました)

なぜ、私が
「苦しみは幻想だ〜」
というスポ根精神に辿り着いたのか
辿ってみたいと思います。

もがいていると行動的に見える

客観的に見ると
私には
能力があり
両親に愛されて育ち
友人に恵まれて
愛されて
やりたい事をやっている

という事を、
私はよく自覚していました。

それでも、満たされなかったし
満たされない私は
いつまでも欠陥品で
誰にも理解されず
その価値も無く
本当に愛される事は無いのだと

理屈ではないところで
感じて
一度涙が出始めると
止まらなくなる事が
よくありました。

それでも、人から見ると
あれやこれや
挑戦したり、動き続けていたのは

他に、生き方が
見つからなかったからです。

痛い事は怖かったから
自分から生を止める程の
モチベーションは無く

ただ、それなら少しでも
辛くない人生にしたいと
もがいていた結果でした。

それでも、自己肯定感の低さが残った

いつからだったか
私には
「よい人間になりたい」
という
強い願いがありました。

大人になってからの事です。

幼い時から、
自分の言動が
人を傷つける事を
後になってから気づいて
自己嫌悪に陥る
という事を
繰り返して来ました

私は
これ、ご先祖が
良いカルマでも
積んでいたのかしら、
と思ったりするのですが

あまり荒れた環境とか
荒んだ人間関係に
巻き込まれた事が無く

多少、同級生に嫌われたり
男嫌いになったりしても
どういう訳だか、
私を受け入れてくれる人たちが
一定数いました。

これは、ごく単純に
とても幸運な事だったと思います。

ただ、何かを口にして
行動にして
後で自己嫌悪に陥る、
という事を
繰り返していました。

大人になってから、
ハッキリと
「私は傷ついた」と
伝えられる事が
何度かあって

そうならない人間になりたい
よい人間、
人に良いものばかりを
与えられる人間になりたいと
切望するようになりました。

結論から言えば
それはそれなりに叶えられて
(この事は後で
もう少し説明します)

ヘンに自己嫌悪に陥る事は
ここ数年で格段に減り
ほとんど無くなりました。

どこに行っても、
基本的には友好的で
良い扱いを受けるようになり
近しい人たちにも
大事にされているなと
感じる事ばかりです。

それでも、
私には孤独と
自己肯定感の低さが
残っていました。

自己嫌悪を減らした方法

自己嫌悪してしまうような事を
しないようにしよう
と思った時
何をしたかと言えば

基本的には、
何でも口に出す前に
ひと息、いったん考える
事です。

何か反発を感じた時、
喉からせり上がってくる言葉が
相手を傷つけるためであれば
発しない。

思い浮かんだ言葉が
本当に思っている事で無ければ
口にしない。

これだけの事ですが、
もちろん1日で変わった
訳ではなく
少なくとも12年は
かかっていると思います。

意識をし始めた時には
変わっています。

意識し続けていたら、
時間はかかっても
必ず変わるものです。

いつのまにか、
ごく当たり前に
相手の糧になる言葉を
考えて
話す事ができるように
なりました。

で、
そうやって自己嫌悪が
無くなってくると
改めて思う訳です。

なんで、
随分良い状況になったのに
こんなに自己肯定感が
低いんだ?

これはひょっとして、
根拠が無い、
実体が無い事なんじゃないか」

私は、まだまだ
ひどい孤独を感じていました。

幸福を選択し続けるというスポ根

私は、
相手の身になって考えられる
本当に相手のためになるような
言葉で話せるようになれば

自然と、自己肯定感も
上がるのではないかと
思っていました。

でも、考えてみれば
気を遣いすぎて疲れるとか
みんなを喜ばせようとして疲れるとか
よく聞く話なので

どうも
よい人間である事と
幸福度とは
相関関係に無いらしい
と気づきました。

そして、
インドで出会った、
ある高位女性行者の言葉
思い出しました。

幸福を選択し続ける事を
強く決断し続けなければならない

幸福である事を選択し続ける

というスポ根な話に、
「そんな体力勝負な事は無理です
と当時は思った
実際、そんな事は当時の私にとって
絶望的に無理な話だったのですが

ある時
「あ、そういう事なんだな」と
不意に、得心したのです。

つまり、
極論を言えば
苦しむ事は時間の無駄
という事で

よく言う、
セルフイメージを上げる言葉を言う
アファメーション
というのも、

つまりは
幸福を選択し続けるための
筋トレ
なのです。

苦しむ事が時間の無駄、
というのは、
本人の行動に関わらず
苦しむ事を
一刻一刻、選び続けている
そのように習慣づけられてしまっている
という事で

そんな暇があれば
苦しまないという選択
苦しまない決意を
した方が合理的
という意味です。

そこでは、
自己肯定感がどうとかいう
発想がそもそも存在しません。

人は小さな神さま

日本の古いお祈りの詩で
六根清浄太祓
(ろっこんしょうじょうおおはらい)
というものがあります。
ごく大雑把に言えば、

人は全て神さまの
小さな分身なのだから
その、小さな神さまである自らを
むやみに傷つけてはいけません。

源である神さまが清らかなのだから
一見して穢(けが)れて見えても
そう簡単に穢れるものではないし
清らかに保っていれば
神さまを通して天地と繋がっているのだから
純粋な願いが叶わないはずが無いのです。

と、いう内容です。

古神道祝詞CDブック

(参考:「古神道祝詞CDブック」古川陽明著…祝詞本文やちゃんとした解説は本をご参照ください。上のは私の適当なまとめです)

この祝詞(のりと)の事を
考えながら
「そう思いたいけど、
実際には難しい
などと考えていた時に

苦しいという感情を
見つめていて
ふと
見えてきたイメージ
この画になりました。

実際には、
最初に見えてきた
イメージは

ヘドロの塊でした。

ヘドロに覆い隠された
何かが
お化けのように
こちらをジッと
凝視している

というイメージでした。
(恐怖ですね)

そのイメージと、
数日付き合っているうちに
段々、ヘドロが落ちて
剥がれてきて

出てきたのが、
刃物をこちらに突きつけて立つ
ガラスのような目をした
感情が抜け落ちたような
少女でした。

この少女が、
上で言うところの
「小さな神さま」で

この少女を
こんな目に遭わせているのは
私自身なんだな、
と分かりました。

いわゆる
インナーチャイルド、
というものかもしれませんが

そちらは門外漢なので
よく分かりません。

この少女を
ちゃんと直視しなければいけない
という想いが、
私の場合は、画になりました

今はたぶん、彼女を温かいお風呂に入れて
ドライヤーをかけるところぐらいまでは
いったかと思います。

自己肯定感とは心の習慣(筋肉)である

つまり自己肯定感とは
自然と身につけて育った人にとっては
習慣であり

そうでない人にとっては
スポ根の筋トレなのです。

「幸福を選択する」という
まずその基礎筋肉を付けなければいけない。

疲労困憊の時に
ケーキを食べて
「カロリー高い物を食べて
と落ち込むのでは無く
「このケーキは私を幸せにした!!!」
と、力づくで宣言してしまう筋肉。

習慣の問題です。

この習慣を支える筋肉があると
そもそも「自己肯定感」などの
発想すら、ありません。

「小さな神さま」の話で言えば
まずこの神さまを気にかける習慣が無く、
お世話をする習慣も無いので

気がつくと、
埃を被り、ドロドロに祟ってしまう。

まずは気にかけて、
挨拶するところから始める。

これが多分、
いわゆるアファメーションの
意図するところなのです。

そういえば、
師匠の兄弟子にあたる方も
こんな話をされていました。

己の身の内にある
神さまにお祈りやお仕えをすれば
答えてはくれないかもしれないが
必ず祝福をくれる。

参考になる本

自己肯定感が低いあなたが、変わる方法

自己肯定感の本は、
この一冊しか持っていないのですが
私はとても好きな本で
悩んでいる方には
オススメします。

「過去を変えられる」
と言うと、いかにもアヤシイのですが
苦しみの元になる記憶に
はたらきかける提案です。

うつを抜けた日

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