🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

匂い立つ花の蜜

少しきっかけがあって
風姿花伝を読んでいて
(これぐらいなら原文でも
(活字になっていれば)
読めるようになりました……!)

バウルと「花」について
考えてみました。
というよりも、
花とは何なのか、
を知るために
風姿花伝を読み出したのですが。

風姿花伝に言われる花は、
こんな感じ。
(読みづらかったら
引用は適当にとばしてください。
私の大雑把な現代語訳は
載せておきますが……)

風姿花伝より世阿弥の花

(二十四五)
されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花にお きて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。一公案して思ふべし。わが位のほどほ どよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するな り。よくよく心得べし。

≪若さゆえの花を「これこそが花だ」と思うと、真実の花からは遠ざかる。自分の分をよくよく心得ていればこの花はすぐには消えないが、過分に自分を認識すると、元々持っていた花も失ってしまう≫

(五十有余)
亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。

≪父は5月19日に52歳で亡くなったが、その月の4日には公演していて、その日は格別に華やかで観衆は誰もが絶賛した。複雑な役は若手に譲って、やりやすいものだけを少しだけやっていたが、花はますます匂い立つようだった。これは真実、得ることができた花だからだ。能は、老木になって枝葉が少なくなっても、花は散らさずに残っているということだ。老骨にまだ花が残っていたという証拠だ。≫

(問答の八)
しかれば、このしほれたると申すこと、花よりもなほ上のことにも申しつ べし。花なくては、しほれどころ無益なり。それは湿りたるになるべし。花のしほれたらんこそおもしろけれ。花 咲かぬ草木のしほれたらん、なにかおもしろかるべき。されば、花を究めんこと、一大事なるに、その上とも申す べきことなれば、しほれたる風体、かへすがへす大事なり。さるほどに、たとへにも申しがたし。

≪「しおれる」というのは、花よりも更に上級のことだ。そもそも花が無ければ、しおれても何の面白みも無い。花の咲かない草木がしおれたところで何も面白くない。つまり、花をきわめるだけでも大変なのに、その上にあたるしおれるという風体は、本当に大変なことなのだ≫

(問答の九)
ただ真の花は、咲く道理も、散る道理も、人のままなるべし。されば久かるべし。この理を知らむこと、 いかがすべき。…(中略)… まづ、七歳よりこのかた、年 来の稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中にあてて、分かちおぼえて、能をつくし、工夫を究めて後、この 花を失せぬところを知るべし。この物数を究むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種 を知るべし。花は心、種はわざなるべし。

≪まことの花は、咲くも散るも、心のままだ。だからこそずっと続く。これを知っていないといけない。幼少より稽古に励み、様々な役をしっかり覚えて、工夫を尽くして、やっとこの「花が失われない」境地に至ることができる。様々な役をしっかり究めることこそが、花の種だ。花を知るには、まず種を知らないといけない。花は心で、種はわざなのだ。≫

(第五 より)
およそ、能の名望を得ること、品々多し。上手は、目不利の心にあひかなふこと難し。下手は、目利の眼にあふ ことなし。下手にて目利の眼にかなはぬは、不審あるべからず。上手、目不利の心に合はぬこと、これは目不利の 眼のおよばぬところなれども、得たる上手にて、工夫あらんしてならば、また目不利の眼にも、おもしろしと見ゆ ように能をすべし。この工夫と達者を極めたらんしてをば、花を究めたるとや申すべき。されば、この位にいたら んしては、いかに年寄たりとも、若き花に劣ることあるべからず。

≪能の上手は、見る目の無い人には理解できない。能の下手は、見る目のある目利きの目にはかなわない。下手が目利きの目にかなわないというのは当たり前だが、上手の人が見る目の無い人に理解されないというのは、工夫してその良さが見えるようにすることはできる。この工夫と技芸を極めて初めて、花をきわめたと言える。この境地に至れば、どれほど歳をとっても、若さゆえの花に劣るということは無い。≫

…(中略)…
この芸とは、衆人愛嬌をもて一座建立の寿福とせり。ゆゑに、あまりにおよばぬ風体のみなれば、また諸人の褒 美かけたり。このため、能に初心を忘れずして、ときに応じところによりて、おろかなる眼にも、実にもと思う様 に、能をせむこと、これ寿福なり。

≪芸は、普通の人々に愛されて初めて、その本分を果たし、しかるべき祝福があるというものだ。あまりに彼らの理解ができないものになってしまうと、人々の心は離れてしまう。だから初心を忘れず、時には見る目の無い人にも納得のできる能をすることこそを寿福と言う≫

…(中略)…
この寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間のことわりにかかりて、もし、欲心に住せば、これ第一道 の廃るべき因縁なり。道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のための嗜みには、道正にすたるべし。 道すたらば、寿福おのづから滅すべし。正直円明にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと、嗜むべし。

≪その寿福を増やすためと、ただ世間におもねって欲のままに動けば、道は廃れてしまう。寿福を増やすのは道のためのたしなみだが、寿福を増やすためだけに事をなせば道は廃れてしまう。道が廃れれば、寿福は自然と無くなる。まっさらに正直で、世の中の誰もに徳をもたらす妙なる花を咲かせるために、行うべきである≫

(別紙口伝より)
秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花な り。

≪花は隠しておくものだ。隠してこそ花である。隠しておかないと花にはならない。この分別をよく分かっておくことが肝要だ≫

こちらより原文引用。
現代語訳はパロミタが
ざっくり適当にやっているので
間違っていたらすみません。

……このあたりですね。

世阿弥の「花」は、
「花は咲いては散るもの」
という認識の上に

「隠しておいて、
いざという時に咲かせるもの」
「これぞという時に
匂い立つもの」

刹那だからこそ、
その一瞬の輝きがいやます花

この花の開花を、
自在にできるようになる事を
花をきわめると言う

というようなニュアンス
があるように思います。

バウルのうたう花

バウルのうたでは、
蓮の花がよく出てきます。
そして、花の蜜、
またそれを求めて
集まってくる蜂なども
よく出てきます。

蜂にはいくつか含みがあって、
「黒い蜂」と言う時には、
「黒い彼の方(クリシュナ)」
を連想し、この黒い蜂は
秘密の蜜のありかを知っている……
という事になりますが、

元々、蜂を表す言葉「ブロモラ」には
「彷徨う」という意味もあります。

グルという花の蜜、
香りに惹かれて
やって来る
彷徨える蜂たち……
という風にもとれるし、

またマドゥコリ【蜜集め】は
托鉢のことを言いますが、
ここでは蜂はバウル行者です。
家々を周り、
聖なる名をうたいながら、
蜜=喜捨、大地の恵
を集める蜂。

ご存知の方も
多いかと思いますが、
いわゆるチャクラは、
多く、蓮の花として
表されます。

頭頂のサハスラーラは、
千の花びらを持つ蓮の花。
そこに触れられた時、
辿り着いた時に初めて
花が咲く。

バウルで花と言うと、
外に向かって花開かせる
というよりは、

内側にある花を
見つける事、
その蕾を咲かせること。

できたら、咲きっぱなし
の方が、いいです、多分。
グルと呼ばれる人々は
その状態で、
その蜜の香りが自然と匂い立ち
その甘さを求めて人が集まってくる。

でもほとんどの人は
中々そうはならないので
常に、内側の花を
そしてその中の甘露たる蜜を
求めている、探している
そういう状態と
言えるかと思います。

その花の蜜を知ること、
というのが、バウルにとっては
大事なことで、
それを法悦と言ってもよいかと思います。

散るからこそ、
生命の輝きと美しさを見る
そこに法悦が実現する
日本の「花」に比べると、
こちらの方が錬金術的
かもしれませんね。

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