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よろこびを捧げる

行者は怒りもや悲しみも
人にぶつけず、
すべて「あの方」に捧げる。

よろこびも、悲しみも、
すべての感情を。

これはかなり初期に
師匠に言われた言葉で、
深く印象に残っているものです。

また別の時には、

どんなことも、
贈り物として受け取る。
どんな苦しい状況も。

こうした時、
やはりまず念頭に来るのは
そして取り組むのは、
ネガティブな感情の
取り扱い方だと思います。

負の感情は、
自分でも嫌なものだから
どうにかしたいから、
どうにかできるように
苦しみながらでも、
率先して取り組める。

また、嫌な気持ちを
手放せたり、
捧げることができた時は
はっきりと風通しが良くなるので
分かりやすいとも言えます。

でもこの間、ふと
ああそうか、
喜びや楽しみといった
嬉しい感情や記憶に
執着しているんだなあ
と思って、

「喜びを捧げる」
という事が、
パッと見えるほどには、
当たり前だったり、
簡単ではないこと
気がつきました。

一度気が付いたら、
ガンガン送っていける……
のですが、

幸せな気持ちは、
咲いたその瞬間は
瑞々しく、かぐわしく
良いものですが

そこに拘泥してしまうと、
段々と腐ってきてしまうというか
そういう部分が確かにあるなあと
分かりました。

だから、まだ瑞々しく
かぐわしいうちに、
最も美しいうちに、
捧げる。

(でもすえた匂いのする感情でも
気がついた時に、捧げれば
それでいいのですが

私は不肖ながら行者だから、
修行としてこういう姿勢を
持つのですが、

本来的には、どんな感情も
どんな瞬間も、
祝福できる、
祝福されるべきものです)

楽しさや、嬉しさは
ちゃんと昇華していけば
どんどん湧いてくるものだから
縋り付く必要は
たぶん、本来、無いのですが

私もそうですが、
どこかに、それが珍しいことだ
という意識があると、
ふと気がつくと、
そこにしがみついてしまう
ことがあるんだなあ……と。

その時節に咲いた花は、
その瞬間に楽しめばいいし、
その記憶を思い返して
幸せな気持ちが湧き上がってきたら
それもそのままに味わえばいいけど

そこにしがみついては
あまり良くないし
次に循環しなくなるんですね。

バウルのうたには、

どうかゴウランガ(聖者)、
この胸の蓮の花
(あるいは胸中の神殿)に来て
そこでハリの名を歌い続けて

という表現が
たまに出てきます。

この感情の問題に
集中して取り組んでいると
この嘆願が
より切実な実感として
迫り、浮き上がってくるようになりました。

どうかゴウランガ(聖者)、
この胸の蓮の花
(あるいは胸中の神殿)に来て
そこでハリの名を歌い続けて

まあそうは言っても、
やっぱり先に課題になるのは
嫌な気持ちの方かなあと思いますが

実際、ずーっと見ていくと
負の感情と正の感情と
違いがあるのかも、
分からなくなっていくような
ところがあります。

「負の感情」と書きましたが、
怒りだってネガティブとは限らなかったり
愛しさもこだわると執着になったり

たぶん、どんな感情も
咲いた時には、ただの花なのです。
ただ時節を超えて掴み続けると
風通しが良くなくなるということで。

簡単なことのようだけど、
そんなことに気がついた春でした。

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