🟡11月3日〜18日師匠パルバティ・バウル来日ツアー! 🟡

見失うこと(3月18日のメルマガより)

(3月18日のメルマガより)

結構、ずーっと
自分の仕事の意味というものを
考え続けていて
翻訳なんかは、割に
それが分かりやすかったのですが

ふと、
野球選手が野球の人類的な意味を疑う
みたいなことをやっているな
と思いまして

突き詰めると、どんなことも
別にあっても無くてもいいよな……
と思いがちなので

他人のことならともかく、
自分のことに関しては
意味を求めるというのは
私は向いていないんだな
と今更悟りました。

心の底から求めることに
正当性を求めるよりは
本当に心底求めているかを
ちゃんと見つめているだけの方がいいなと。

インドにいる間、
私は声が迷子になるところがあって
日本にいる間に問い続けて
やっと自分の歌声が
見つかったような気がしても

向こうに行くと、
途端に行方不明になっちゃって

ここ最近は大丈夫だけど、
少し前は何年も、
インドにいる間に
足を見失って浮きながら歩く
ようなところがありました。

逆だろうと思われるかもしれないけど
何だろう、日本では
ずっと身体に取り組んできた
ということもあるのかもしれないけど
それなりに地に足を着けて歩けるようになるのに

インドでは目まぐるしい日々の中、
後は何となく上昇気流的な
何というかエネルギーのようなものが
あるからか、
とにかく
日本に戻ってきて、
「足を見失っちゃった!」
と再出発することが多かったです。

ある程度舞えるようになった頃からは
インドにいても、
足を見失わなくなりました。

同じようなことが
きっと声にも起こるかなと
思います、
声は日本にいても
すぐ迷子になるけどね。

語ることを忘れて、歌おうとすると
すぐダメになる。
扁桃腺の腫れが分かってからは、
「あーやっぱり勘違いじゃなかったのか」
と、より負荷に敏感になったので
より分かりやすくなりました。

昨日思ったのは、
ドタラ(弦楽器)の演奏でも
同じようなところがありそうで

どんな学びごとでも、
まずはもちろん、
真似やコピーを徹底する
ということは大事なんだけど

意外と私は、
自分を空っぽというよりは
置き去りにして
擦り寄っていくタイプだったのかもしれない
と、思うところがあります。

たとえば英語でも、
大学を卒業して、
オーストラリアを出てからの方が
自由に喋れるようになった
というところがあり
(それまでもネイティブと
思われることもあったけど、
それでも断然違って)

多少なりとも、
私としての自然な演奏の仕方ができてきて
そうしたら、また改めて
ちゃんと教われるという気もして来ました。

何でこんなにずっと下手なんだろうと
落ち込むことも多かったものでですね。

声も、そもそも自分の声が
分かっている人は、
元々歌が上手でなくても
やっぱり、誰もの琴線に触れる
うたいをするんです

ということを、
バウルの周辺にいて
目撃することがありました。

こういうことだったんだな、と
今更腑に落ちています。

– – – – – –

ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)

今日も明日も良い日でありますように。

パロミタ

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