この頃、より強く認識しているのは
ボーカリストになりたい訳ではなかった
ということで
歌唱力のある人をすごいと思うけど、
そうなりたいという訳ではなかった
音程が取れることは大事だし、
うまく歌えるに越したことは、
もちろん無いんだけど
(できればそこは
最低ラインとしたいところだけど)
歌い手というのは、必ずしも
「声の楽器のように鳴らせる人」
ではない、ということです。
そういう人が凄いことは
言うまでもないことだけど
「私がなりたい存在」は、
そこには無かったという気づき
私はあくまで、
詩をうたえる、
歌を話せる
そういう風になりたい
……し、
それは、私が自然には
声を楽器のように
自在に操れるようには
なれなかった、
ということでもあるのですが
そもそもの話として、
どうしてもそうなりたい
というほどの気持ちが無くて
歌唱力がある=(イコール)
声を楽器として巧みに操れる
ことだという、思い込みが
私の側にあった、ということです。
たぶん、本当になりたかったら
どれほど無理でも、才能が無くても
意地と努力でこだわり抜いて
どうにかしてしまうと思うのですが
突き詰めて考えると、
そうではなかったなと
最近、スーッと
憑き物が落ちるように気がつきました。
私にとっての「ありたい自然」に
自然とうたう私、というのがいて
でもそのあり方は、
私にしか実現できず
だけど、どこか、私にとっての
「詩人」というものに限りなく近い
(でも世間一般の詩人の定義とは違うらしい)。
ごく当たり前のことだけど、
私はただ私としてうたえばいい
誰の歌声も、参考にはなっても
標準にはならない、
基準にはならない、
「そのよう」にはなれない。
唯一なりうるとしたら師匠の声だけど
私は師匠と同じにはなれない
(当たり前のことなんだけど)
師匠もそんなことは望んでいないし、
望んでいるのはそこではない
私が人を見るとき、
その人らしいその人を見ていたいと思う、
歌声も、舞姿も、ぜんぶ同じことだ
と、いうこと。
忙しかったり、調子を崩したりして
数日歌わないでいた後に歌うと
それがいかに私の基盤をなしうるか
そして歌わないでいることで
それを忘れてしまうのか
ということが分かります。
でもそれはもしかしたら、
音楽という意味での歌とは
少し違うのかもしれません。
十代の時に惹きつけられた
「うたう詩」
というものが何なのか、
今になってようやく、
見出しかけているように思われます。
先日、
【Dance in Music~ラージャスターンとブルガリア】
でお世話になった大野慎矢さんの
「山村暮鳥のうた」を聴きに行ってきて
詩を読むような歌いの自然さに、
色々なことを思いました。
バウルのうたでも、
同じ行者の作歌は、なんとなく
旋律の特徴があって
何となく検討がついてくる
ようなところがあるのですが
(特にここ一世紀~半世紀ぐらいの方は、
たぶんかなりそのまま伝えられているので)
うたを作るときに
旋律を工夫することさえ、
歴史や世界の中では
別に当たり前のことではないし
(和歌や中国少数民族の歌垣とか、
即興歌の伝統は大体、定型が決まっている)
でも別に工夫してもいいし
本来それだけ自由なもので
伴奏なども、そのうたを
より自由に解き放つことができる
そういう力を持ったもの。
大野さんはたぶん、
音楽が言葉のような方なので
(だけど言葉のセンスも強い)
私のようにゴチャゴチャ考えずとも
何となくああいう自然さで
できてしまうんだろうなと思うのですが。
今年に入ってから、けっこう
Youtubeで、日本の歌手を
色々見るようになってきて
最近になってようやく、
自分の立ち位置みたいなものの
整理がちゃんとついてきた、かもしれません。
いつも以上にまとまらなくてすみません。
唄とか、歌とか、
私にはいちばん、近くて遠くて
やたらに考えてしまいます。
そしてうたうのと同じ質感で、
私はたぶん、文章を書いているし
もっともっと、そのようになっていきたい
と、思います。
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次のソロ公演、まだまだお席ありますので
お会いできると嬉しいです。
◆2022年11月18日(金)
開場6:30pm 開演7:00pm
2500円(1ドリンク別)
場所 祖師ヶ谷大蔵ムリウイ
飲食 ドリンクのみ
予約 tomomi.paromita@gmail.com
もしくは こちらのフォームより
(※3日以内に返信なければメールよりお願いします)
当日券も出ます。
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(寺原太郎さん、寺田亮平さんとの共演)
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※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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